階級章が読み取られ、入室の許可が下りる。
付着しだだろう雑菌を考慮して、道すがらウィルスカーテンを三種も潜りなおしてきていた。シャッフルは、おかげですこぶる時間を食ったような錯覚に見舞われ、なお立場が悪化したのではないかと気をもむ。だからといって相手は『エブランチル』のクレッシェだ。心の準備こそが、最も無駄な行為でもあった。
思い起こせば当時、『Ｆ７』の真の目的をラボ従事者へ吹聴したことは、自身の身の丈に合わぬ野心が想像力の限りに膨らんだせいだったと思い起こす。軽くあおげば自ずと燃え広がる火種はそのとき目の前で揺らめくと、チャンスだと、まったくもてシャッフルをそそのかしていた。
そもそもシャッフルにとって、このプロジェクトは集大成ともいえる大仕事である。言わしめて有り余るほど、連邦にとってもかつてない巨大戦略だった。だが戦略であればこそこれが世間へ公表されることはなく、携わった己が名を残すことも、世間から相当の評価を受けることも、ありはしない。
重々承知の上だった。
だが明かせない真相に、全ての栄誉がドクターイルサリに仕立て上げられたＡＩなどにさらわれようとして初めて、感情はどこまでもシャッフル個人の所有物であることを思い知らされることになる。押し込めればそれは澱のように溜ると、やがてはシャッフルの内で消化できない異物へすり替わり、気づけば無視できぬ声で主張を続け、騒ぎを利用してアルトを独占しろと、交換にドクター・イルサリの名を我がものとすることを上層部へ突きつけろと、揺らめいた。
そうして得るのは揺るぎない地位と名誉、そしてもみ消されることのない未来だ。
しかし現実は、この体たらくだった。
いや、まだ終わったわけではない、とシャッフルは青白い頬へ、瞳へ、こめかみへ、好戦的な色を浮かび上がらせてゆく。ままに開いたドアの向こう側に、クレッシェの姿を探した。
立て込んでいた様子をうかがわせクレッシェは、ちょうどと新しい白衣へ袖を通している。苛立たしげな表情を、すぐにも気づいたシャッフルへ向けた。
『もう少し丁重に扱っていただきたいものですね。中尉』
言って、厚く塗られたコーティング剤で、白衣の前合わせをシールしてゆく。
『あれには代わりがないのです。せめてコピーが終了するまでは、無傷で保存しておきたい』
殴りつけたのがシャッフル自身なら、クレッシェの言う『あれ』がアルトのことであると気づくに、そう時間はかかっていない。
『何か、不都合でも？』
あえて問い返し、クレッシェの傍らへ歩み寄る。見向きもしないクレッシェは、立ち上げずみだった仮想デスクをスリープ状態へ切り替え、その口を開いた。
『滅菌ゲルシリンダーのバイタルレポートより異常値が検出されました。単なる血圧の低下によるものでしたが、即座に回収。処置済みとなっています。復元塩基とオリジナル塩基の最終チェックへ入ろうとした矢先のことでした』
デスクは、伝えてよこした通りの作業ごと消え去り、がらんとした空間だけをふたりの周囲に残す。
『心配しているような外傷が原因ではありません』
相変わらずの読みでクレッシェが、先を越してみせた。思わずシャッフルは奥歯を噛みしめ、その顔を見据える。
『ただあの場へ拘束するのであれば、周囲の状況への配慮をいただきたかったところです。今のアルトには著しい自我が備わっている様子ですから』
弁解の余地はない。見切ったようにクレッシェも、それまであった義理の笑みすら浮かべようとしなかった。ただ視線を、おもむろに部屋の隅へ飛ばす。理解できず、つられたようにシャッフルもそちらへ目をやった。
瞬間、風景は、はがれるように揺れ動く。
床をする足音は聞こえ、魚眼を通したかのごとくたわんで切り取られた風景は、クレッシェへ近づいた。
ミラー効果だ。
気づいたときにはもう遅い。
クレッシェの両脇へ、効果を切った分隊員たちは次々と姿を現してゆく。かまえられたダイラタンシーベレットのショットガンは、間違いなくシャッフルをとらえていた。
話したいことがあるハズだと呼びつけておいて、その話にはまだ一言も触れておらず、このありさまはやり口が汚すぎる。シャッフルから舌打ちはもれた。
『結論から申し上げましょう』
『それがあなたのやり方だ』
『当ラボにおけるあなたの役目は今この地点をもって終了いたしました。本日、この瞬間よりシャッフル中尉、あなたはこのラボから離れていただきます』
何のマネだととぼける隙すら、ありそうもない。
『近日中に本国へ帰還。あなたには新たな赴任先、クラウナートの採掘現場へ保健部員として向かっていただく予定です』
分隊員を両脇に従えクレッシェは、最後に残しておいたような袖口を片方づつシールしながら至って丁寧に突きつける。
『クラウナート？』
思わずシャッフルは、繰り返していた。当然だ。その地に覚えのない者はいないだろう。だからこそその場から、後ずさってゆく。
『わたしの記憶に間違いがなければ、そしてあなたの言い違いでなければ、あの汚染惑星のクラウナートへ、ですか？ そこへ行けと？ そこで強制労働に従事する服役囚たちの面倒を見ろと？』
吐き出せばどうして笑いがこみ上げてくるのか自分でも分からず、分からぬ己に不気味さを感じて、シャッフルはその顔をいつも通り、ひとなでした。
狼狽。
そうしてようやく己の感情に気付き、声を低くする。
『あなたは、そこでわたしに、死ねとおっしゃるわけだ』
脳裏に、『カウンスラー』の遺跡前で目にした物乞いの変形した体は過っていった。
『それは聞こえの悪い解釈と言うものですよ、中尉。残念ながらこれは降格です』
クレッシェの物言いは、静かが過ぎて事務的を極めている。その冷静さで、これは変更の効かぬ決定事項なのだとも言わしめていた。シャッフルの神経はその口調になお逆立つ。隠し通せるはずなどないなら敵意もあらわと、抗議していた。
『確かに直接出向いたことは、命令違反だ。ですが、アルトの確保についての評価をいただいてもいいはずではないのですか』
ならクレッシェの声は鋭さを増す。
『いいえ。あれは、わたしの管理不行き届きから起きた事件でした。ですからわたしは、今日まであなたにその罪を償うべくポジションを与えてきたのです。評価を知りたいというのならば、あなたは単に自らの招いた惨事の収拾に努めた、それだけに過ぎません。評価したからこそ、あたなはクラウナートへ保健員として向かうのです。罪人としてではない』
『……なるほど』
睨み合った。
果てにシャッフルはひとつ、鼻で笑いとばす。
『あのクーデターを煽ったのはわたしだと、ずいぶん前からお見通しだったというわけですか』
答えるべく言葉を溜め込んだクレッシェの目が、極限にまで細められてゆく。
『あなたはすぐ顔に出る。いつも伝えていたハズです』
拘束の指示は、次の瞬間にも出されかねなかった。
『別体は……、セフポドは安心ならない存在だと思いますがね』
遮るべくシャッフルは、矢継ぎばやと言葉を並べる。
『イルサリを起こすまでの間、奴の志向性にすら矯正をかけることはできない。一体、誰が奴を監視するつもりで？ 同じ合成塩基の研究員に？ それともこの物騒な分隊員たちに？ ご冗談でしょう？ また以前のような騒動が起こりかねない。それでもわたしをここから外してよろしいのですか？』
苦し紛れだということは、己が最もよく理解している。見透かしてクレッシェも、有り余る余裕を見せ付け、細めていた目から力を抜いていった。
『ご忠告、ありがたく頂戴しておきますよ。ですが中尉、あなたにその役割は荷が重過ぎるようです。ご存じないようなら申し上げておきましょう。セフはスタンエアを所持していました』
それはあまりにも唐突な報告だ。
『なんですと？』
聞かされ、シャッフルは目を見開く。
『極Ｙが見過ごしたとは思えません』
『まさか、奴ら……』
『気づけなかったあなたに、今後も任せられるような役割ではない』
バサリ、切り捨てた。
『ご心配なく。セフの様子はわたしが巡航艇で確認しました。そうですね、あれはあれでいいようにアルトの子守をしてくれるでしょう。それが彼をこの事態に縛り付ける、そして世界を縛り付ける、同胞と同郷の呪縛というもののようです。もちろん事態が落ち着いたあかつきには研究対象としてセフポドは凍結、生成を禁止する予定でもありますから、今後このような失態は二度と起きません。これはわたしにとっても大変興味深い案件となりました』
穏やかに笑った。そこに無邪気さを見たのは錯覚か。シャッフルはたまらず口を開く。
『……なるほど、全てはあなたの思うがまま、というわけですな。それはさぞかし気分のいいことだ』
食らったところでクレッシェの顔色が変わることはない。
『勝手な想像は好ましくありません。わたしの意志は単に、理想の未来を反映したものに過ぎない。個人的な嗜好と混同されては不愉快といわざるを得ませんね。あなたが求めた個人の利益は、わたしに存在しないのです』
それこそ傲慢な物言いというものだ。だがしかしクレッシェに疑う様子はない。
『あの事件で、そうしたものを手にしようとしたあなたとは、違います』
言い切ってさえみせる。ならそこにあるのは、決して理解しあえない他者だった。
『……違い？ ですか』
のぞき込み、シャッフルは繰り返す。
当てられればまるで新しい白衣へウィルスのシミが広がるといわんばかり、クレッシェはその視線を断ち切った。全ての話が終了したことを告げシャッフルへ背を向ける。持ち上げた手のひらを、払いのけるように宙で翻した。合図に分隊員たちは動き出す。だがいくら指示とはいえ、いまさら粗暴な態度に出ることがはばかられる様子だ。静々とシャッフルの周りを取り囲んでいった。
『中尉、お静かに。このまま我々と同行願いたい』
分隊長だ。低い声で促す。響きはむしろ、遠慮がちですらあった。シャッフルは曲がらぬ口元で、そんな分隊長へどうにか笑い返してみせる。
『奴がスタンエアを持っていただと？』
確認した。
『らしい。回収したものは、わたしが預かっている』
あいだにも、近づいた分隊員がシャッフルの右に左に立った。拘束しようと、小脇に構えた銃口より前へ、その手を伸ばす。
『ならば、大事に……』
それは右側の分隊員の手が、シャッフルの脇をくぐり腕をとらえようとした瞬間だ。
『持っておいてもらおう！』
言い放つや否や、シャッフルは力の限り分隊員の腕を脇へ挟み込んだ。屈みこむように体ごとひねれば、関節の外れるゴクリ、とした手ごたえが伝わってくる。分隊員からくぐもった悲鳴は上がり、そのまま崩れ落ちていったなら、すかさずシャッフルはそんな分隊員からショットガンを奪い取る。
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