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ACTion 65 『闘争の序曲』



 網膜へと直接投影された映像には、不思議なほど距離感がない。
 ログインコードが織りなす脳磁気パターンを読み取り、そこに道は開かれていた。
 一気に光が辺りを包み込み、真白となったところで暗転する。
 闇の底がバーコードかとまだなら線を引いて白んだかと思うと、裂いて真っ白な球体は浮き上がっていた。アルトの注意を引き付けそれは跳ね回ると、やがて視界の左肩で静止する。右へと滑りながらセフポドのアクセスコードを文字羅列として、視界の中に吐き出していった。遠近感は、そんな文字せいでおぼろげながらも取り戻される。イルサリの仮想空間は、ついにそこへ立ち上がっていた。

  パターンを認識
  誤差、〇、〇〇二パーセント
  誤差許容範囲内
  塩基ナンバー11 セフポド・キシム・プロキセチル クルー34
  『約束』発行元
  アクセス許可

 同時に文字を吐き出した球体が、膨れ上がってゆく。再び辺りを白く塗りつぶしたかと思えば、弾けて中心より飲み込むような黒い空間がアルトの視界を覆っていった。と、イルサリの排気熱量が増したらしい。耳元で羽虫の飛ぶようだった音が、振動伴う重低音に変わる。

  おはようございます

 連ねられる文字。
 あの事件以後、自閉することで音声を封鎖した、それはイルサリの第一声だ。なおかつ時を経ても何変ることのない、状況に応じたいつもの応答だった。一瞬にして過去へ引き戻されたような錯覚にとらわれアルトもまた、力むことなくこう返す。
『そんな時間か』
 ならイルサリは、律儀と詳細を告げてよこした。


  本艦内共通時刻を『ヒト』の二十四時間基準に換算
  現在は午前四時二十九分十一秒です


 右下にアナログ時計までもが表示される。
『ありがとう。あちこち引きずり回されたせいで時間の感覚がなくなっていたようだな』
 などと順調なイルサリの様子に白衣たちが、アルトの周囲でざわつき始めた。
 知ったことかとアルトは、イルサリとのセッションに集中する。
『もうひとつ、お前には礼をいわなければならない』


  なんでしょう?


 それは賭けだっただけに、感謝の意は嘘偽りのない本物だ。
 『約束を果たしてくれた。ありがとう』
 しかしあくまでもイルサリは、自らの調子を崩さない。


  現在、『約束』はその検証を実行中です
  検証の過程において、わたしの意思が仮設定されたことをレポートします
  検証終了は、わたしの意志の消滅が確認された地点となります
  同時に結果を反映
  『約束』の内容の提示如何、また『約束』の実行の是非については、消滅後の予定となっています


 目を通し、思わずアルトは小さく笑っていた。
『そのせいなのか』


  その、とは何をさしているのですか?


『仮設定されたというお前の意思だ』
 閉じた瞳で、焼き付けられた網膜上の景色を見回す。
『ここの様子がまるで以前と違っている』
 ずいぶん機能が制限されているようだ。遠近感のなさは物理上、不可能な配列を成すためのものだったが、そうまでしてセッションをスムーズに行うべく雑多なアイコンの羅列やコマンド処理が可能ながらも、今、見ての通りここにはほとんど何もない。


  『約束』への侵入工策が外部から多発
  阻止するため、わたしの『意志』により、遮断
  周囲にトラップとバリケードを強化しました
  現在、何者の攻撃も受け付けません


『意思、か……』
 思わずアルトは声を漏らす。それ以上を飲み込みイルサリへと問いかけた。
『今現在、お前はお前自身を客観的にレポートすることができるか? イルサリ』
 とたん、それまでのやり取りに溜まっていた文字が、消え失せる。まさに悩むような間はそこにあくと、やがて不規則なリズムを刻んで文字は、打ちだされていった。


  『約束』を守ることで、わたしはあなたを模倣している、と認知しています
  模倣する時間に比例して、わたしは仮設定された意志が、
  強化されてゆくことを認知しています
  現在、強化された意志に仮はなく、全ての実行は意思の選択により行われている、
  と認知しています
  ゆえにわたしと意志、すなわちあなたの境界は、現在判別不可能です


『……そうか』
 吐き出した。理解できぬとも言えないそれは、アルト自身にも覚えがのあるものだ。だからこその皮肉を感じつつ、アルトはイルサリへこう教えてやることにしていた。
『……わたしがお前の靴にになったというわけだ』


  靴?


 イルサリは即座に問い返してくる。


  わたしは、肉体を有していません


 主張した。
『そうじゃない。なら思うがままに意思を動かすための最初、ひとつのきっかけだ。その種をわたしがお前へ植え付けたのだ、と言いかえよう。生きとし生けるモノが持ちうる己のルーツであり、ツール(道具)、わたしは今、その話をしている』
 もっともな取り違えを、アルトは訂正して言い含めた。なら文脈を解体するイルサリが、勢いよく文字を吐き出してゆく。


  ルーツとは、根源を指します
  わたしの根源は『あなた』となります
  わたしは有機体ではありません
  あなたは靴ではありません


『なったのさ、今』
 一呼吸おき、アルトは言った。それはずいぶん滑稽だったかもしれないが、真実やもしれなかった。
『そうさ、ハッピーバースデイ、イルサリ。お前はここに生まれた。生まれたからこそ、生きてゆかねばならぬモノとなった』
 また一段と増した排気熱量に、羽虫の振動がアルトの耳元で騒ぎ立てる。
『そんなお前に指示を出すつもりはもうない』
 それは今にも、空へと上がりそうだった。
『かわりに、相談がある』
 前にしてアルトは持ちかける。


  はい、なんでしょう? セフポド


 答えるイルサリに、指示と相談の違いを問いただす文脈が欠落しているのは単なる気のせいか。かまうことなくアルトはつづる。
『わたしだけでなく、外部からのアクセスへ道を開いてほしい。かつてのように記憶マーカーの注入や、アルトの脳細胞マッッピングとコピーに手を貸してほしい。ネット全体のブランクを利用できるお前の能力がなければ、物理的に無理な作業だ』
 イルサリはしばし黙した。 
 やがて答えを弾き出す。


  それは不可能です
  『約束』が検証中である限り、
  外部からのアクセスを受け付けることはできません


 初めて突きつけられた、それはNOである。だがたじろぐことなくアルトはこうも、たたみかけた。
『いや、その提示を要求する者はもういない。お前の検証を阻害する者は現れない』
 ネオンとアルト本人を手中に収めた今となっては、所在を記しているだろう内容など連邦が必要とするはずもない。
『その安全はわたしが約束する』
 言い切っていた。
 確認してイルサリは問い返す。


  その約束は、あなたの意思の消滅が確認されるまで
  検証され続けるものでしょうか?


 文脈がややこしいが仕方ないだろう。イルサリはイルサリのやり方で、その約束は死ぬまで守られるものなのか、と問いかけてくる。
『ああ、損じたりはしないよ』
 物わかりがいいのもそのうちだ。真逆とアルトは、あっけないほどの二つ返事でイルサリへ答えて返した。


  分かりました
  外部アクセスを通常へシフト
  自閉モードを解除
  防壁を除去します


 引き換えに、イルサリは了解する。
 とたん空白を埋めて、かつてのアイコンは無数と浮かびあがってくる。重なっているようで手前に奥の曖昧な、かつてのイルサリ仮想空間は淡白なまでの蒼さで蘇っていった。


  『全方位オープンまで、六三〇セコンド』
  『おはようございます』
  『わたしはイルサリです』
  『アクセスコードをどうぞ』


 文字が音声に変わっている。
 聞いてアルトは頭部を覆っていたメガーソケットの背もたれ部分を、跳ね上げる。
『いや、たとえその不可侵領域へ踏み込もうとする者が現れたとしても、お前もまた闘うまでさ』
 吐いて、軽くうめき立ち上がった。
 隣では依然と白衣がリンクを続けている。残る白衣らは、自閉を解いたイルサリの様子にかぶりつかんばかり端末の波形を観察していた。そのうちの一体がアルトへ素っ頓狂な顔で振り返ってみせる。あの事件の後、生成された有機体だろう。アルトはその顔に覚えがなかった。向けてただ、肩をすくめて返す。その首を、再びイルサリへとひねった。そこにイルサリの筐体は、変わらずふてぶてしげにせり出している。見上げたアルトはただ呟いていた。
『……俺たちのように、な』


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