保冷庫から抜き取った代謝促進媒体が自然解凍するまで、今しばらく。
ディスポーサブル（使い捨て）注射器と促進媒体の容器に合うバイオゲージをひとつと、投与中の激しい酵素分解に相当量のエネルギーが必要となることを見越して糖と電解質の輸液セットをニパック、シャッフルは立ち寄ったオフィスよりさらに持ち出す。身の回りに分散してかくまい、痛む足をなだめすかしてラボの外を目指した。
分隊員はまだ相当数この船に乗り合わせているハズだというのに、そんなシャッフルを追いかけて来る気配はない。警報はおろか、出入りを遮断すべくウィルスカーテンさえ、照射レベルを上げはしなかった。
そこにシャッフルは、クレッシェのあからさまな狙いを読み取る。ここは閉鎖空間だ。どうせ逃げ切れはしない。たかをくくっているに違いないと想像した。しかも待ちに待ったアルトが連れ戻されたところでもある。下手に騒ぎを起こし、遅れに遅れた計画へさらに水を差すような真似こそ避けたいのだろう。その優先順位のつけ方こそいかにもクレッシェらしく、苦笑いすらもれる。
『Ｆ７』と外部を分け隔てる隔壁前に立てば、もうすれ違う者はいなくなっていた。
普段ならリーダーへ階級章をあてがい隔壁を開放させるところだが、さすがにできはしない。とはいえ、代わりに使用するコードもまた、知る者が限られた代物だった。だが時間稼ぎくらいにはなるだろう、と手動によるブランクコード入力によって隔壁ロックの解除にかかる。
終われば、跳ね上がる閂の音が聞こえていた。
やがて空気は抜け出し、共に隔壁はスライドしてゆく。
同時に独特の熱気を含んで膨張した外気が、胸焼けするほどにシャッフルの前へ吹き込んできた。
開き切るのを待たずして、シャッフルは出来たわずかな隙間からラボの外へと抜け出す。
正面に、下ろされた格納庫のシャッターが立ち塞がる。つい先ほどまで乗っていた巡航艇は、その向こうに停泊しているはずだった。ここが出入りの制限された場所であることを示して左右には、それ以外、何も見当たらない。
シャッフルはシャッターへ擦り寄る。
その脇、勝手口としてに取り付けられた開き戸に触れた。そこに取り付けられている鍵が、古めかしい物理鍵である、ということはかなり以前から知っている事実だ。確かめ、腰から抜き取ったスタンエアのグリップで二発、叩き落とす。格納庫の中へと足を踏み入れた。
その床を切り取ってひとところ、取り付けられたハッチを踏み込み跳ね上げる。内蔵されていたメンテナンス機材はすぐにも、シャッフルの前へリフトアップされた。
目をやることなくシャッフルは、そんなリフトの隙間へ身を屈める。覗き込めば床下には、暗く大きな空間は広がっていた。他の格納庫とをつないで、電源や燃料の補填装置が通されているダクトだ。
降りるとして、リフトと床の隙間は体が通るかどうかの幅しかなかった。睨んでシャッフルは、そろりそろりとそこへ体を潜り込ませてゆく。突っかかりそうになったなら息を吐いて身を萎ませた。やがて浮いていた足が筒状となって横たわる補填装置の感触をとらえなら、頼りにシャッフルはアゴを上げてどうにか頭までを床下にくぐらせ、手だけをその縁にかけてぶら下がる。そうっとダクトの上へ降り立った。
当然ながら明かりはない。メンテナンスのためリフトアップされているのだろう。各所でリフトアップされたメンテナンスッ機材の隙間から、点々と光は差し込み行く手を照らしている。作業にいそしむそれら格納庫こそ、今も続けられている遺体引き取り作業に伴い、民間船が停泊している格納庫で間違いなかった。
民間スペースへ出ることが出来たなら、安置所は目と鼻の先だ。そこには無数の動かぬ有機体が並べられると、それら有機体を保管すべく資材もまた、数多くストックされていた。紛れ込めば、傷の回復につとめるにはもってこいの環境だと思えてならない。
いくら広い船内とはいえ、長らく詰めていた船だ。身に染みついている構造と距離感覚を頼りにシャッフルは、暗闇の中をゆっくりと歩き出す。足元を、傍らを、埋めてのたうつケーブルやパイプに注意を払い、翻弄されながら、記憶だけを頼りにただ前進した。
やがてこの辺りで十分か、という場所へ辿りつく。リフトアップされ、あいた隙間から光を投げるメンテナンス機材一式の下で足を止めた。見上げて耳をすませば、聞こえてくるのは充電中の鈍い駆動音と液化混合ガスの注ぎ込まれる圧縮音だけだ。仕事もあるだろうに。フルオートのそれらを置いて船の持ち主は、仕事へ向かったらしいことを感じ取る。
ならば、とシャッフルは、頭上へ引き上げられている機材の一部へ被弾していない方の足をかける。伸びあがり、どうにか切り取られた床の縁へ手をかけると共に、頭をねじ込み、上体を持ち上げにかかる。
嫌でも被弾した足へ力が入ったなら、自然、漏れ出す声を押さえることはできなくなっていた。その痛み具合からして再トライは難しい。だからこそ意地でも持ち上げた上体、その胸を、格納庫の床へ貼り付けていた。這いつくばり、邪魔としか思えない下半身を力の限り床へ引き上げる。
と、かろうじて尻が、機材の隙間から抜け出した。一気に安定した体をシャッフルは、前方へ放り出すように投げた。
ヒザまでもが床の上へ乗りあ上げる。
もう大丈夫だ。思えば精根尽き果て、そこでごろり、寝返っていた。
しばし各種機材のぶら下がる天井を見上げ、荒い呼吸を繰り返す。
近寄り、囲む足音は依然として現れる様子がない。
少しばかり視線をずらせば案の定、典型的な装飾をプリントした霊柩船の舳先は見えていた。
幾らか呼吸が落ち着いたところで、体をしならせ立ち上がる。
その足で霊柩船後部にある管制端末へ回り込んだのは、抜け出す前に艦の情報を見ておきたかったからだ。
床から飛び出す格好で据えつけられた管制端末の待機画面を、シャッフルは指で弾く。直近のものから順に、入艦した船のリストはスクロールを始め、数から遺体搬送もいくらかピークを過ぎたらしいことを知った。紛れて流れてゆく字面に、ふと我を取り戻す。
スラー葬儀社。
確かに今しがた、そう見えた気がしたのだ。そしてその名には何か引っかかるものがあった。思い出すべく見直そうと画面を呼び戻す。ならそれは呼び戻された画面上で、フェルマータ葬儀社へ名を変えてはまた思い出したようにスラー葬儀社の名をちらつかせ灯った。見て取ったシャッフルの両目は見開かれてゆく。
そう、引っかかるものがあるはずだと思い出す。なぜならスラー葬儀社は、いもしない『ラウア』語カウンターのネイティブ店員を探しに現れた葬儀社の名だと記憶していた。つまるところそれは、セフポドと何らかつながりがある葬儀社である、ということを思い出す。
とたんシャッフルは、腹の中で暴れはじめた滑稽の気配を感じ取った。堪えることなどできはしない。疲れと痛みと、身の上の混乱にさえもが追い討ちをかけ、次の瞬間、自分でも理解できないほ大声で笑い始める。
何しろ即席なまでにＩＤを偽造し現れたスラー葬儀社の目的など、セフポド救出以外、考えられなかった。無謀を越えたその行動は、ここがどこなのかを知らぬ無知ぶりを浮き彫りとていた。
『何者かは知らんが、この程度の小細工で乗り込んでくるなど、クレッシェの前に立つことも無理だというしかないな』
吐いて笑いおさめ、管制端末を切る。
最後、鼻で小さく鼻いとばし、外へと靴先を向けた。
が、止まる足。
痛むからではない。
シャッフルの体は自然、管制端末へとよじれてゆく。
『……全てはクレッシェの思う通り、か』
ぽつり、呟いていた。
と同時に、光る瞳から瞬きは消え去る。やがてゆっくりその口は、不敵な笑みを模すと歪められていった。
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