『イルサリが自閉を解いた。これからリンクルームでチェックを行う。チェック後、可能ならば即アルトの再矯正にかかる。至急、中断していたアルト複製塩基との照合解析を再開。準備にかかれ』
上げた頭で部屋を出る。防磁ドアを据え置いたイルサリへのリンクルームは、クレッシェの部屋を回り込んだ向こう、Ｙ字通路片側の奥にあった。向かって足を進めながら、トパルは片耳へ掛けたままのマイク越しにプロダクトルームへ指示を飛ばす。
『もう一点。極Ｙ塩基付加の進行具合はどうなっている？』
『今のところ順調です。代謝スピードも安定。体温の上昇は現在も続いていますが、これは代謝安定とのタイムラグで頭打ちになることが予想されます』
確認すれば、返事は淀むことなく返されていた。
『了解。落ち着いたところで手の空いた者を順次、アルトの矯正へ移行させろ』
『了解』
軽く引いてマイクを巻き上げる。
現れたＹ字を右へ折れた。
すぐにも目に入ってくる通路、突き当りを睨む。
とそこに取り付けられた防磁気ドアが、通路側へ浮き上がった。開いたそこを潜り抜けて、やおら彼は姿を現す。疑うまでもない。彼がイルサリの自閉を解いたの。トパルは確信していた。
そんな彼と自然、目は合う。そうして与えたはずの白衣が早くもなくなっていることに、唖然としていた。
感度はかなり低いものだったが、あれはあれで最低限のウィルス濃度と菌種を感知できるシロモノである。それは自らの汚染度合いを把握するためであり、有機体の生成過程においては、清潔を保つため欠かせないものでもあった。
着用はクレッシェの神経質さに比例して徹底されている。ラボ内では、とりわけトパルたちのような職員の間では、手放すなど考えられぬ行為だった。ゆえに脱ぎ去った彼の様子は、いまだ続く反抗そのものとトパルの目に映る。犯しているミスを気に留めぬ毅然としたその態度もまた、注意を払い、神経を使い続けてきた己へのあてつけか、と癇に障りさえしていた。
すぐさま正したい衝動が、トパルを襲う。
自ずと両眼に力は入っていた。
どちらが間違っているのか、いや、自らの正当性を維持するためにも、だ。
今すぐ正して思い知らせたい思いがトパルの中を駆け巡る。
だがそうして騒ぎ立てれば騒ぎ立てるほど、だった。それは消しようなくトパルの前へ浮かび上がってくる。見据えた彼とそれは、やがて引き剥がしようなく重なっていた。
もう、隠すことなどできはしない。つまるところ浮かび上がってきたそれとは、嫉妬だ。タブーを打ち破ってなお平然としている彼に、だからして彼なら質問できただろうと想像してしまったことに、トパルは己が強く嫉妬していることを意識する。
『お疲れ様というべきでしょうか？』
辿り着き言っていた。
トパルを中へ通すためか防磁気ドアは閉め切られておらず、後ろ手に支えて彼はそこで複雑な表情を向けている。
『クレッシェが言うように理解するなら、俺は俺の仕事をしたまでだ。いたわられるような事は何ひとつやっちゃぁいないよ』
答えずトパルは、彼の支える防磁気ドアへ手をかけた。押し込み、ひと思いに閉める。入るのではなかったのか。彼の面持ちは不可思議そうだった。
『中に影響が出ます』
向けてトパルは言い放つ。
『あの騒動のせいで、イルサリの取り扱いもややこしくなったもんだ』
失礼、いわんばかりに彼が小首をかしげてみせていた。先を急いできびすを返しかける。
『あなたはあの時、わたしの名を呼びました』
その背をトパルは押し止めていた。
声に振り返った彼は、何の話なのかすぐに飲み込めなかったらしい。しばし眉を寄せ、それからようやく口は開かれていた。
『トパルと……、３４クルーと見間違えただけだ。気に障ったなら、謝る』
言い淀んで改めた彼は、何をや気を遣っているらしい。
『それは一世代前のわたしでした』
返して耳にした舌打ちは、彼のものだ。
『シャッフルじゃあるまいし、そうやすやすと言うなよ』
これでは気に障っているのがどちらの方だか分からない。しかしながらかまわずトパルは続ける。
『覚えていますか？ 何が違うと、尋ねられた軍医の言葉を』
話を持ち出した。
『ここであんたも、俺を殴る気だって？』
少しばかり挑発的な口調で彼は茶化す。だがその誘いに、乗ったりなどするはずがないかった。
『何が、違う……と、あなたは考えます？』
トパルはただ問い返す。にもかかわらずそれは彼にとってどうでもいい話らしい。
『何も変らないさ』
軽くあしらっただけだった。
だからといって逃がすつもりこそ、ない。
『軍医は先ほどこのプロジェクトから、ラボからはずされました。その際、発砲騒ぎが起こった様子です』
『シャッフルが？』
さすがにこの話は彼であっても驚くものだったらしい。聞き返して矢継ぎばやに、トパルへ問い返しもする。
『で、どうなった？』
聞いたトパルは奥歯を噛み締めていた。それこそが、投げかけることの出来なかった自らの質問だ。慕っていたはずの軍医の顛末。それをいとも容易く聞き返してきた彼に、なおさら嫉妬心は湧き起こって来る。
『違いなどない』
気づけば口走っていた。
いや、根本から違うのさ。
聞こえたような気がして、口調は自ずと強くなっていた。
『わたしたちは有事の際、殲滅を防ぐため多少の揺らぎをもって生成されたとしても、原型をラボが管理する、同じ塩基から派生した有機体だ。時間さえあれば、そんな質問などわたしにもできた』
食らった彼は、きょとんとしている。やがて察したらしい。その目を訝しげと細めていった。
『クレッシェにシャッフルのことを聞かされてすぐ、ここへ来るよう指示されたのか？』
問われてトパルは目を逸らす。
『わたしにとって軍医は最も信頼した上官だった。気にならないはずがない。だからこそ確かめなければならなかったのに、どうすればそれが出来るのか、あの時、わたしには分からなかった。時間さえあれば……、時間さえあればわたしにもできたはずだ。あなたに出来て、わたしに出来ないハズがないんだ』
繰り返したのはおそらく、自らへ言い聞かせるためだろう。だからこそ見かねたか、彼はそのときこうつづる。
『違いがあるとするなら……』
ついぞトパルは、勢いよく顔を跳ね上げていた。振り返った彼を見る目が、傷にでも触れられたかのように縮んで吊り上がっているのが自分にも分かる。前にしたところで彼が怯むことはなかった。話して聞かせる口調は、それまでと変わらない。
『……あんたはかつての俺がそうだったように、まだ自分の言葉を持ってないだけさ。ただ今の俺には、俺だけの感覚っ、てやつが確かにあるんだ。土くれからでもなんでもいい。生まれてここへ切り離された、これが俺だと言う、そんな感覚がな』
『自分の言葉？ 生まれてきた、感覚？ それは単なるあなたの曖昧な主観だ。それが違いだと？』
『思うだろ？ だが、否定できないほどちゃんとあるんだ。その得体の知れない混沌としたものが、ここにな』
指先で、彼が突いてみせたのは自らの胸だ。
『だから誰にもさらわれない、俺のだけルールで動ける』
そして小さくトパルへ微笑んでみせた。
『曖昧だと切り捨てるあんたにゃ、俺のマネはできないよ』
それは諭すようであり、自らに満足したような笑みでもあった。
それこそが、わたしにはない。
過れば跳ねのけたい衝動が、またもやトパルを突き動かす。
『理解できないものに価値などない』
『そいつは、クレッシェに毒され過ぎだぜ』
『なら、あの事件に加担したわたしも、３４クルーのわたしもそうだったのか？』
確かめれば、それまで続いていた会話にしばらくの間は空いた。
『ラボでアルトの……』
言いかけて彼は、言葉を切る。思い出した何かを辿るように、再びトパルの前へ連ねていった。
『俺が一番そばにいただけで、ラボでアルトの矯正過程に加わった有機体は少なくとも、その片鱗を埋め込まれていたのかもしれないな』
いつしかトパルは、肩で浅い呼吸を繰り返している自分に気づく。そんなはずはない。落ち着け。ただ己へ言い聞かせていた。
『外に出る』
呟きは、今こそ必要なものだとしか思えない。
『外？』
このプロジェクトを完成させ、潤滑に動く等しき世界の外へ出る。リスクを負う支配者の世界に住まう者となる。『カウンスラー』でシャッフルと交わした言葉は、鮮烈な驚きと共にトパルの中に残されていた。そして今、彼への嫉妬心を抑えるにはそうするほか術がないように思えてならなかった。
『そこへ出たなら違いなどと、すぐにも勘違いであることは明らかとなる』
吐きつけ防磁気ドアへと手を伸ばす。
引き開け、一気に中へ足を踏み入れた。
監視していた白衣らはそこで、ようやく現れたトパルへ振り返っていた。
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