「……け、けもじ、ワリぃ」
気持ちよく空を飛んでいたハズだった。
あらゆる意味で別段、空を飛ぶことは珍しくない体験だったが、あれほど心地よく飛んだのは恐らく初めてではなかろうか。思うままに風を切る疾走感は、そのとき子供がごとくアルトの胸を躍らせて止まなかった。
ところが案の定、胃の腑が縮み上がるほどの底なしの落下を経て、目は覚める。どうせなら、あの心地よさのままに還りたいところだったが、現実とのつじつまを合わせるためにもそれは必要なワンシーンだったらしい。証拠に、今だ縮み上がったままのみぞおちは、昨夜のアルコールをめいっぱいに染み込ませて汚泥がごとく溶けきっている。きしむこめかみは悪魔の囁きで視界をユラリ歪めると、モヤをかけたように酒臭ささえ漂わせてさえいた。つまるところ二日酔いだ。おかげで事なきを得たが、これではこれからが事アリの様子にほかならなかった。
「光速、出口まで百八十セコンド」
そんな不快の欠片も知らぬだろうイルサリが、告げる。
すでにコクピットは気密が解かれた後となっていた。その中央でアルトは、衝撃なき落下の果てからどうにか重い頭を持ち上げてゆく。
アクリルドームの視界両脇では、光速突入時と同様のカウントダウンが出口回避可能エリア突破までを示し、すでに回転を始めていた。
「もう、ついちまったのかよ」
睨み、眠気と残る酔いで二重に緩みきった顔を代謝分、伸びたひげごと粘るように拭って唸る。動作の一つ一つが、いつもの数十倍、億劫だ。その手でオートパイロットのスイッチを切った。
やおらフットペダルへ重みが戻る。計器類へ微震は走り、形ばかりとアルトはスロットルへ手を添えた。
「加減すりゃ、良かった」
後悔先に立たずとはこのことだ。寄りかかるや否や、えづく。
「出口まで、百二十セコンド」
だとしてイルサリが慰めるはずもない。
置いてゆかれまいと、アルトは今にも閉じそうなまぶたをこじあける。万が一が起こりかねない高速への出入りだけは、オートパイロット任せとはいかなかった。辛うじてアクリルドームへアゴを持ち上げる。
透けはじめたアクリルドームの向こうでストライプ模様は、ポツリポツリと途切れ始めていた。船はそうして広がりゆく切れ目の黒い影に向かい、突き進んでゆく。
「第一緩衝ネット、突入」
潜り抜けたところで、衝撃らしい衝撃はない。
「第二緩衝ネット、突入」
さらにもう一枚、突き抜ければ光がさらに細かく分断されていた。三枚目を抜ける頃には点へと姿を変え、光速へ突入した当初よろしく雨がごとくアクリルドームを叩き出す。その向こうに、高速の出口はのぞいていた。
確認して、アルトは無理から座席へと背中を押し付ける。
「光速出口。五、四、三……」
こみ上げる何かを飲み込みつつ、読み上げるイルサリの声に耳を傾けた。
従い視界で雨粒は、今や霧とけぶっている。
果てに、音もなく晴れていた。
無事、光速からの降船は済まされる。
証拠に、瞬きを忘れ張り付く星々が、遠近感を失い周囲へ所狭しとばら撒かれていた。
ハズだった。
何しろ船は激しい揺れに襲われている。突き上げられた船体が、光速を降りるなり跳ねて飛び上がっていた。衝撃にどこぞに転がっていた酒瓶は派手な音を立ててコクピット内を転び、聞きながら反射的にアルトはフットペダルを蹴り上げる。
「なッ」
傾いだ船体の鼻先を修正した。
「どうしたッ？」
イルサリを怒鳴りつける。
「ガスです！ 父上」
アクリルドームでナビもまた、光速を抜け出すと同時に、狂った磁石がごとく向かうべき対象座標を見失い意味不明な他船軌道を投げ落としている。重なり警報がヒステリックに鳴り響き、紛れイルサリの返事は返されていた。その声は、それら光景が錯覚させているだけなのか、いつになく感情的にさえ聞こえる。
「爆発後のガス拡散スピードが計算を上回っていました。現在、その末端に突入した模様！」
間にも、舳先はまたもや見えぬ何かにブチ当り弾き飛ばされる。無論、見えぬ何かこそが積乱雲、つまるところ壁と立ち塞がるガスのムラで間違いなく、時折、気相成長で付着したＦｅの残りカスへも、プラズマ放電、閃光さえ走らせていた。
「出口がもう、末端かよッ」
こうなれば、危険とみてとったなら引き返すも何もあったものではない。
「クソッ」
酔いも一気に醒めるていた。吐き捨てアルトは激震の中、シートベルトを手早くその身へ巻きつけてゆく。
「ナビが役に立たねぇ。お前、目的地はロックできてるかッ？」
イルサリへ確認した。
「精度に不安アリ、しかしながら外部から補足可」
事態を考慮したイルサリの答えは実に手短だ。察してこうも付け加える。
「衛星、アクセス。障壁回避ルート確保。父上、ここからの舵はわたしが取ります」
またもや左舷が弾かれていた。軋み、流されるままに、ふたひねりする船体はもう、きりもみ状態に近い。ゆえにかかる負荷のせいだ。単調だった動力音にも、聞き慣れぬうねりが混じっていた。千切れ飛びそうな後付カーゴモジュールもまた、後方で怪しげな悲鳴をあげている。
「冗談ッ」
流されるまま跳ねて、なるべく優しくスロットルを傾けアルトは、どうにか船へ安定を取り戻させる。
「お前もいつ落ちるかわかんねーだろうがッ。任せられるかッ。俺の反応速度は知ってるだろ。言えッ。俺が飛ばすッ」
と足元で、ガスの一撃を食らった船体が鈍い音を鳴り響かせた。積乱雲の中を飛ぶなどこれが初体験なのだから、この先、船体がもつかどうかなど神のみぞ知る領域とだ。
『な、何なの！』
この揺れと轟音のせいで叩き起こされたらしい。そんなコクピットへ、ワソランの声は飛び込んできた。もちろんしっかり上着を身に着けていた、今のアルトにその点を確認するようなヒマに余裕こそない。
『キャッ』
説明する間もなくまた船体は激しく揺れ、振り落とされそうになったワソランが階段の手すりにしがみついた。さらに、どこからともなく飛び込んできた酒瓶を、キャッチする。
『掴まれッ。ちょいと踊るぞッ』
目もくれず、アルトは声を張った。目にも耳にもうるさいナビを切る。
『おどるって？』
そうして始まったのは、イルサリの口頭ナビだ。
従い、四肢を切り返し続ければ、なぶられるようだった衝撃こそ気配を潜め、ガスを切り裂く船体の軋みだけが不気味と辺りを制した。
積乱雲から放たれまといつくプラズマの中を、それでいてアルトの船は派手に舳先を振ってもんどりうちながら、踊るにふさわしい小気味よさで突き進んでゆく。
立て込むイルサリのリクエストに、焦り足元の踏み込みが甘くなったなら、厚いガスに弾かれ思い出したように進路を乱した。
「出力不足」
「失敬ッ」
背後でワソランの悲鳴は上がり、いかんせん万全とは言い難い体調だ、途切れかけていた集中力諸共、アルトは船体をたて直しにかかる。
計器たちが、そんなアルトを応援するかのように小刻みに揺れていた。
と、そこでイルサリの口頭ナビは切れる。
「父上、誤差が〇．〇〇一パーセント以内であれば、目標は視界の中のハズです。取り急ぎ肉眼での確認をお願い致します」
それがガスのせいなのかどうかは、判然としない。だが視界はかすみ、見づらいからこそアルトは指示されたまま、アクリルドームの右から左、上から下へ頭を振って対象を探す。
様子に到着したのだと気づいたワソランも、しがみついていた階段から駆け寄ると、アルトの納まる座席を掴んで懸命に探し始める。
しばし二人の視線は迷走していた。
と、その彼方でひと筋の放電は起こる。
吸い寄せられて爆ぜった先に、やおら機影は浮かんでいた。
『あれ！』
気づいたワソランが指さす。
アクリルドームすれすれだった。アルトの膝頭に隠れそうな位置に確かと影はある。
見据えてアルトはスロットルを倒していった。指し示された位置を、視界のど真ん中へ据え直してゆく。やがてそこに中型船は姿を表していた。トラのバンプと同じクルーザータイプの船は、二人の目の前に浮かび上がる。間違いなしとその船側には、船賊たちの残して行ったスワッピングマニュピレーターの爪痕もまた紛れもなく刻み込まれていた。
とたんアルトの口元から、安堵に近い息はもれ出す。
『あれなの？』
奇跡の生還にはまだ道程も半ばだったが、問うて食い入るように見つめるワソランを傍らに、アルトはシートベルトを解いていった。
『そうだ』
同時に、気合と競り合っていた気持ち悪さが胸の奥底へ舞い戻ってきたのは、気のせいか。おかげで緩慢になりがちな動作へ鞭を入れ、幾度となく進行方向とは逆に噴射をかけながら推力を落としつつ、最初、乗り込んだ位置へ船を近づけていった。
「ありましたか？ 父上」
自らの仕事の出来を気にしているのか、イルサリが確かめている。
誤差〇．〇〇１パーセントとはいえ、この広大な宇宙の中でこの程度のズレならば上出来だ。見えはしないと分かっていても、アルトは思わず頷き返していた。
「ああ、上出来だ」
「さすが、連邦の軍事衛星です」
どうやら情報元はそこらしい。
「まだそこに入れるのかよ、お前」
呆れてアルトは、唇を尖らせる。
「はい、連邦船ビアンカの制圧中に、コードを知りましたので」
「ウロウロして、また奴らにスカウトされるな」
それこそホンネだ。
「まさか、父上との約束を売るようなマネは、いたしません」
手短に投げ合えば、その間にもアルトの船は目的のクルーザー船にピタリ、並び終えていた。停泊してしまえば、さして揺れや衝撃が襲うことはないらしい。時折発生するプラズマが火花を散らす程度と、穏やかなものだ。
自らの目が窪んでいることを自覚しつつ、スロットルから手を離してアルトはコリをほぐすように首を捻る。再び軽くえづき、座席から腰を上げた。
「水でハラ、膨らませてから乗船する」
イルサリへ言い放ち、ワソランへ振り返る。
いや、振り返ったつもりだった。
が、幾分前にもこのパターンを食らったように、そこに彼女の姿はない。代わりに背後から、イルサリの声がアルトを呼び止める。
「父上、ただ今、手動で気密カーテンが稼動中です。乗船先の船の環境確認を急ぎますか？」
「な、なにぃ？」
声を裏返していた。
間違いなく、手動の動力源はワソランだ。座席の背に貼り付けていたスタンエアを、もぎ取る。ついでに作業着のポケットへ通信機を落とし込むとアルトは、唸った。
「大至急だッ」
どうやら水をどうする間もないらしい。
「お嬢は、段取りってもんを知らねぇのかよッ」
慌てふためき連結部のある船底へと、コクピットを駆け降りる。
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