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生き物たちの部屋/宮本輝


簡素な文体。
深い洞察力。
感受性というのは、天性のものなのか。
それとも環境が研ぎ澄ます後天的なものなのか。
著者の幼少期から今まで、身の周りの思い出されるあれやこれやが、
優しくつづられている。

宮本輝氏の著書はこれしか知らない。
気を取りなおして本日、取りあげる一冊、
それがN.riverのほとんど読まないエッセイ、
『生き物ものたちの部屋』だ。

つまり本来、書かれていることはそうも優しくない。
土台には、悲しみ、罪悪感、切なさという現実があって
それをユーモアでくるみ、氏はここで差し出している。
そしてそのユーモアには、ユーモアでくるむ行為には、
「品格」とでも言うべきか、「品格」といわしめるそれこそが「知性」なのか、
感じ取れてならないのである。
だからして読み手は現実を心地よくさえ受け取れる。

中でも「小説を書く」ことに対する氏のくだりは、
一読する価値あり、とお勧めだろう。
芥川賞作家でも、いや、その冠と金銭の発生するプロだからこそよけいにか、
いざ書く寸前に襲われるプレッシャーや、閃くまでの孤独や、怒り。
それらをなだめすかす滑稽な有様に、自虐、絶望、仕切り直し。
物を書く、ということに対する姿勢は興味深い。
大先生も鉛筆かじってやっておるのだなぁ、と
これまた笑い半分、切なさ半分で読めるのである。

巻末には、メモ同様の阪神淡路大震災から数日間の日記があり、
伊丹市に家を持つ宮本氏ならでは、
一方、N.riverも隣接する市に住まいしておるため、
生々しい視点にこれまた共感して読めた。
しかも土壇場へ追い込まれたヒトは、ひとめぐりしてどこか滑稽なのだから、
泣きながらも笑えるほどである。

などと、それもこれも、
優しさでくるみ、差し出す氏の文章だからこそか。

芸術(創作)はその人のクソだ。
食ってきたものしか出せない、
と以前、N.riverが勤めていた会社の社長が言っていた。
N.riverもそう思う一人だ。
文章も例外なく、
書き手がそっくりそのまま誤魔化しようなく出ると感じて止まない。

つまり、小手先ではなく氏の人生がそう書かせているなら、
だからこそ本書も、宮本輝という作家そのものにも、
人々をとらえてやまない魅力が宿っているのだろうなぁ、
と感じざるを得ないのである。

ぎゃ、
つまり今、ものすごく恥ずかしい状態ではないか、N.river!
なんて大丈夫。
自覚しているのだ。

なのでダメ押し、最後に忘れたくない一説をメモ。
 ピカソは八歳のとき、どんな大人よりも上手に絵が描けた。だが、子供のように書くために一生かかった。とこ
ろで、小説は、子供のように書けるのだろうか。
         (中略)
小説を、子供のように書くわけにはいかない。それは、小説が、たとえどんなに短編であったとしても、文章による組み合わせと、思考の回路とによって構築されるものだからである。もし、子供のようにというなら、表現において<晦渋>であることを徹底的に排除してゆくしかない。そして、晦渋な表現を排除するためには、思想、もしくは思考が明晰で深くなければならない。
 おそらく、小説のつまらなさは、不鮮明で曖昧な思想や思考を、晦渋に表現することに尽きる。私はそう思っている。
(宮本輝 著 『生き物たちの部屋 エーゲ海の壺』より抜粋)


★宮本輝ファンであるなら
 ぜひお勧めしたい
 肉声の詰まった一冊です
 でなくとも地震を体験していたり、
 物を書くことに行き詰まっていたなら
 きっと力とヒントをくれる一冊だ
 と思います