アルジャーノンに花束を/ダニエル・キイス
|
みんながいい、というものは最大公約数であって、 イコール真実になり得るのか。 時折、思うN.riverである。 ねずみのアルジャーノンは科学の力で、 目覚ましいほどに知性を開花させた。 そんなアルジャーノンに憧れる知恵おくれの主人公、チャーリィ。 双方を軸に物語は進む。 頭がいい、ということは、 この社会においてお金持ち、に匹敵するヒエラルキーを持っている。 けれど三角形の頂点、 お金持ちがおうおうにして、幸福に満ち溢れているか? と問いかけたなら、イエス! と言えないように、 頭のいい人がおうおうにして、幸福に満ち溢れているか? を問うたとき、 その回答を考察するのが本書なのだろう、 とN.riverは考える。 だからしてアルジャーノンと同じ施術を施され、 見る間に明晰となってゆくチャーリィの周りでは、 良いこともあれば、引き換えのような不具合も起きる。 だが明晰さは永遠でなかった。 チャーリィーは再び元のチャーリィへ戻ってゆく。 そして最後、 亡くなったねずみ『アルジャーノンに花束を』捧げるのは元通りのチャーリィである。 それはあたかも知性溢れるチャーリィは冷徹だから、しないよ、 と言わんばかりのラストだった、とN.riverの記憶に残っている。 (読み違えか?) なら問題は、知性溢れるチャーリィの実際はどうなのか、である。 だが問うたとき、そこに比較できる資料はない。 (物理的チャーリィは時間軸上、一人しか存在しない) 知性溢れるチャーリィも、同じ気持ちでアルジャーノンを見送ったやもしれない。 小さなねずみと、たりないチャーリィ、 憐みの対象がそろいぶみしたラストで感動するとして、 それは甚だ失礼な思い込みと、誘導じゃないのか? などと、ひねくれ者のN.riverはうがり、 あまりよさが伝わってこなかったのだった。 ねずみはモルモットで使い捨てられ、 チャーリィはたりない方がみんな(の優越感)を満す。 そういうこと? ひでえな、と思ってみたり。 お金持ちも貧乏も、頭のいい人も悪い人も、 それなりに幸福であり、それなりに不具合を抱えている。 ヒエラルキーの中で誰もが点、であって全体ではない。 欠けた部分を抱えている。 みんな同じだ。 当たり前すぎてどこに何を感じればいいのか、 ピンとこなかった。 そんなベストセラーであった。 一回くらいは、ブラックN.riverで。 ★とはいえ 一度 読んだきりなので 『深い河』同様 二度目で号泣するかも 演劇 ドラマ と幅広く 取り上げられている本書は やはり人を惹きつけてやまない 魅力であふれているのだ と思います N.riverのグチなど気にせず まだの方は ご一読にて お確かめいただければ と思います |