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3. 怒りの扱い方




「書く」という行為を内から湧き立たせる動機には、
ひとつ、語り尽くしたい絶え間なき対象への「愛」がある場合、
ひとつ、語り尽くしたい絶え間なき対象への「怒り」がある場合、
ひとつ、語り尽くせない対象の持つ謎に「興味」がある場合。
大きく分けて、この三つがあると思っています。
(三つ目はどことなく、一つ目に内包されてるような感じもしますが)

一つ目と三つ目は明らかにポジティブです。
だからしてそのまま、それまでの文脈を知らぬ方の前に出しても害になることはないでしょう。まあ、過ぎるとちょっと厄介ですが、何事も「程度」は常識の範囲が前提ですので省きます。

しかし二つ目。これはネガティブ、ドストライクです。
同じようにそのまま放り出したらけっこう大変だ、ということはお分かり頂けることと思います。
たとえば「保育園落ちた、日本死ね」のように物議を醸しだし、藪蛇同然、罵声を浴びせられるかもしれず、ただのクレーマーということで、せっかく訴えてもちゃんと取り合ってもらえなかったり、何より書き手の品位が問われたりしたらもう以降、手も足も出せません。

ということでここに動機がある場合、書くに当たってひとつ、テクニックが入りようになる。オイラはそう、思っています。
つまり吠えてただ吠え返されないよう、ポジティブに見せかけるだけの粉飾が必要になってくる、ということです。
たとえばウィットにとんだとか、エンタメ性とか、芸術的とか。
そしてご存じの通り、多くの創作作品はそれを「昇華」というかたちでまとい、気づけば我々の懐深くへ潜り込むと、ここぞで噛みつき心を揺さぶるわけです。

この「怒り」を蓄えつつ、怒り散らすことのない訴えの狡猾さこそ、わたしは「知性」だと思っています。
そしてあえて噛まれることで「怒り」という傷を分け合う行為に、相手が見ず知らずならなおさら読書でしか味わえない体験を見出します。

どうぞ「怒り」を扱うときは、お気を付け下さい。
現場のNRからでした。

(「本も読書人もオモシロイ シミルボン」投稿分より)