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8. 面白いと面白くない




面白いものが正義だ。面白くないものは、カスだ。
よく耳にする。特にネット上では。

断定するわりに、この何とも曖昧で抽象的な判断基準は、ゆえになんら基準足りていないと思ってる。むしろ具体的に把握できず、明確に指せないがゆえもっともらしい言葉でボカシているだけだ、とも。
この曖昧な基準で下される判断はだからして、出たとこ勝負の行き当たりばったり、その時の気分次第だ、とも見てる。
(と書くと、コメントに「面白かったです」と書いちゃいけないように思われそうだけど。あくまでも論を展開するにあたっての話です)

ひとりよがりはいけない。読者を考慮に入れてないそれは、ただの自慰行為だ。
これもまたよく耳にする。
けれどオイラにそれは「俺が面白くないことが許せない」と言っているようにしか、響かない。そしてその「面白い」「面白くない」の基準が上記であれば、「俺が面白ければOK」という自慰行為さえ自力でままならないからこそ書き手に代行を求める同じ穴のムジナ、その棚上げ発言なんじゃないか、と見てる。

ならば需要と供給。媚びてサービスし成り立つ場に、お金を介して行為を成し遂げる「アレ」を連想してしまったり。

面白いとか面白くないとか、「俺の欲求を満たしてみせろ」というスタンスに対して、何を書けば喜んでもらえるのだとか売れないのだとか顔色をうかがう関係は、煮詰まるほどにだから寂しく眺めてる。

でも時代は合理的なものが好みらしい。
面白い、面白くない! 売れる、売れない!
短期で確実に結果が出ないと、認められたもんじゃないらしい。
そして認められなければ次なるステップも確保しづらく、存続そのものが危うくなるときた。

そういえば科学の世界も、そんなこんなで学者が海外へ流出するって嘆いてたっけ。
そら文学も学問の一種なら、科学か。

もちろん「面白くない」より「面白い」の方が、互いにとっていいことは確かである。しかしながら「面白い」が上記でしかないのなら、そこへ重心を置き過ぎることはおそらく書き手を奉仕者へ変質させ、主体性を失わせると感じている。
そして主体性のない表現はもはや、表現ではない。


(「本も読書人もオモシロイ シミルボン」投稿文を改稿)