ハードボイルドワルツ有機体ブルース 2.5

              





ACT 2

 サイズが合わない。
 ひどく窮屈だ。
 払いのける。
 瞬間、時はようやくズレていた歯車を噛み合わせたらしい。
 甘ったるいラズベリー色か何か。
 とにかく壁はピンクがかっていた。
 それは窓だ、と思う。
 しかし壁を刳り貫いたそこから、光が差しこんでいるようには見えない。
 おそらく、ひどくくもっている。
 それとも、くもっているように見えているだけなのか。
 いや、目は開いている。
 はずだと思う。
 そもそもそれ以上を伺い知るには、欲求そのものが欠落していた。 そうして前と後ろの、時間に空間の、思考は一旦、そこで途切れる。

 脱出艇として選んだ船に積まれていた軍用興奮剤へ次々に手をつけたのは、 滅入る気分で訪れるべく時を待つことに限界を感じたからからだけではなかったハズだ。 途中、脱ぎ捨てた防弾ジョッキはあられもなく裂けていたし、知らない間というのはおかしな表現だとしても、 まさに知らぬ間、被弾していた痛みを適量で堪えることはすでに困難となっていたせいもある。 そしてそう感じる脳髄が砕けずここに残ったこともまた、それが間違った罪悪感だとしてもだ、 トパルをはじめラボの仲間が盾となったせいだと、異なる痛みも大きく影響していた。
 そうして伸ばした手に躊躇がなかろうとも、あいにく遺伝的な故郷はただの巨大な岩の塊でしかないらしい。 つながりのない互いに、止めて言い聞かせるような世話を焼く素振りはなく、 むしろ存在は受け入れられたのではなく排除されていないだけで、 扱いは無関心を極めていた。「孤独」を学習したのもつまるところ、この場所、地球となる。
 抱き合せと知ることとなったのが「懐かしさ」だと言うのなら、 おかしなことに脳裏を過るのは葬ってきたばかりの『F7』だった。 とりわけ余計ごとを語りかけて厄介を引き起こすアルトの青い瞳はちらつくと、 何もない空から音を選んで紡ぎ出す所作そのもの、ならあなたは何を選んでどう奏でるのかと、 自らを突き動かす指示の在り処をこの期に及んでも問いかけてくる。
 記憶を失ったジャンキーじゃあ、この先、箸にも棒にもかからないな、とは考えていた。 だが何より「この先」という言葉に確信が持てないのだ。これでちょうどだ、とアルトへ返す。
 ただ万が一だ。万が一「この先」という時間があったとして、記憶マーカーが発動したその後も、 この瞳は記憶に残るものなのだろうかと考えていた。
 クーデターなどと思い切った行動が選択できたことも、 そんなアルトが投げる問いに触発されたからに過ぎない。 きっかけに始まった選択のドミノ倒しは、そんな視線に支えられたからこそ可能となった芸当なのだ。 だと言うのにここへ来てなくしてしまったなら、ひどく困るだろうなと想像した。
 だがどちらにせよ、不安はすぐにも解消された。
 クスリのせいなら、なおさら必要だと思えてくる。

 また聞こえる。
 ラズベリー色の壁が話しかけてくる。
 言い合うくぐもった声で、隙間なく話しかけていた。
 『ヒト』語ではない。
 しかし理解はできる。
 だが聞こえづらい。
 いや、理解できないせいで聞こえづらく感じるのかと、うがった。
 やがてそのワケは、壁を隔てた向こうから聞こえてくるせいだと気づかされる。なぜなら、開かれたドアに響きは明瞭となり、ようやくお喋りをやめた壁は、それを何者かの気配にすりかえていた。
『わしは、ヒトなんぞ診たことないぞ』
『何もわしは治療してくれというて、お前さんに頼んどるんじゃないわい』
『なら何をせいといいおる。この、トンチキじじいめ』
『とにかく診るだけでかまわんのじゃ』
『だから、わしは診たことがな……む、思ったよりデカい、の』
『いやはや、ここまで運ぶのに苦労したわい。しばらく足腰がたたんかったからの』
『コレは、息を、しとるのか?』
『何をいっとる。それはお前さんが診るところじゃろ。この辺でヒトを診られる医者などおらんからの。連邦の救急に頼んだとして、それはわしが困る』
 しばしの沈黙。
『サス。お前さん、あいかわらず、ヤクザじゃの』
『ヤブ医者で訴えるぞ、リンデロン。でないなら、こやつが生きておるのか死んでおるのか、それだけを確認してくれるだけでもいい。生きておるなら助かる見込みがあるのか、ダメなら後どれくらいか。教えてもらえば、わしは十分じゃ。細かいことがわかったところでこんな場所じゃ、打つ手があるとは思うとらん』
『ええい、つまらんゴタゴタに巻き込みおってから。まったく、見るだけじゃぞ、見る……。しかし、ヒトはデカいの』
 真上から声は降り注いだ。
 膜を張ったような輪郭のはっきりしない視界へ、それでも『デフ6』と分かる鼻の大きな顔が二つ、差し込まれてくる。そしてそれは鼻ではなく、『鼻溜』と呼ばれる『デフ6』独得の器官であることを思い出した。どこかで見知ってはいたが、始めて本物を、生きた細胞を目にしていることに気づく。妙な好奇心が頭をもたげた。こんな機会はめったにないと突き動かされて手を伸ばす。
 瞬間、鼻溜は視界から消えた。
『うおお。こやつ、わしを攻撃しおったぞ。危険じゃ。サス、準備がいる。診察カバンではなくて防菌一式が必要じゃ、身を守る武器が必要じゃ』
 離れた場所から声がなじる。
 それでも、もうひとつの鼻溜は残っていた。
『バカもん。何を言っておる。わしは仕事柄、時にヒトと関わっとる。それくらい区別がつくわい』
 残ったそれが、さらに視界の中央へ乗り出した。
『なんじゃ、生きておったか。気分はどうじゃ? 喋れるのか? 造語は大丈夫なんじゃろうな。わしの言うことが……』
 つまむ。
 思っていたより固かった。ざらざらとした表面は人口皮革を張り付けたようだが、それでいて生暖かく柔軟だ。かつ、しっとり濡れている。咀嚼部位と気道、共鳴器官がこの袋の中でひとつにまとめあげられていて、砂塵を微塵たりとも肺へは入れさせない仕組みになっているはずだった。その仕切りとなる軟骨を指先で探る。
『……ふむ。それだけ力もあるようなら、急にどうこういうこともなさそうじゃな』
 見下ろす『デフ6』が、つままれた鼻溜を器用に揺らした。
『そろそろ離してもらえんかの』
 大きく振って、指先を弾き飛ばす。
 もったいないと思ったが、ならそれが何の役に立つのか思い出せず、すぐにも惜しい思いは途切れた。こんなものに興味を持ったことが、そもそも不思議な欲求でしかなくなる。
『早よこんか。リンデロン』
『お、お前さん、本当に豪胆じゃの。変な病気がうつっとるかもしれんぞ』
『違う。こやつ、バカほど興奮剤を使っとるだけじゃ』
『は? なんじゃと?』
『興奮剤じゃ。わしが飛び込んだ時、カラの容器がそこいらじゅう、散らばっとった』
 何か腰から抜き出したらしい。とたん相手の『デフ6』の声は変わる。
『そ、そりゃ、お前、軍の使うとる特注の奴じゃないか』
『お前さんでも、分かったか』
『マークがついとるわい、マークが』
 近づく足音の慎重さは尋常でない。
『散らばっとったとは、一体、何本じゃ?』
『数えとるヒマなんぞあるもんかい』
『あーあー、字がちっこいのう。十かの。いや、七十ミリグラムか。はっきりした事は言えんが、一本でその単位なら、この体格じゃと……十本前後が限度じゃろうな』
『そんなわけなかろう。そこいらじゅうだったんじゃ』
『ほかに誰ぞ、おったのか? ひとりと言うたなら、滅茶苦茶な量じゃぞ』
『いや、わしが見たときは、ひとりじゃった。ともかく船でここまで運んだからの。それなりに時間もたっとるし……』
『つまりなんじゃ、それだけ打っても、こやつはこうして動いておるということか? なんじゃ一体、こやつは阿呆の軍人か?』
『よくは知らん。見つけたのは地球の空き家じゃ。そこに伏せておった。言うてもまぁ、軍の一員とは思えんな。とにかく体のことはわしの守備範囲外じゃ。だからお前さんに頼んだ。その辺を踏まえて診てやってくれんか。お前さんも、わしに返しとらん借りが幾つかのこっとろうが』
 次に言葉が返ってくるまで、間はあった。
 かと思えば、その声はうるさく耳に響く。
『ええい、たく、かなわんじじいに、かなわん患者じゃのぉっ。分かった。診ればいいんじゃろ。診ればっ。なら、サス、お前さんも手伝え。デカすぎてひとりでは手におえんわ』
 もう視界にあの顔は戻ってこなかった。代わりにまとっていた物を剥ぎ取られ、視界に強い光を差し込まれ、幾つかの器具をあてがわれ、好きなようにあちこちを探られる。それから二体がかりで裏返され、その粗雑な扱いに喉を詰めた。
『なんじゃ、これは』
『気づかんかったの』
『満艦飾じゃな』
 そんな事より先に、体を向けなおしてほしいと思う。
『流動弾の残滓とな。しっとろうが、軍のアレよ』
『わしは医者じゃ。それくらい知っとるわ。やはり阿呆じゃ。一体、幾つ食らっとる?』
『うむ。重なりすぎて数えられんの。それで興奮剤というわけか?』
『背中にしかついとらんぞ。言うことは。こやつ、追われとったと言うことか?』
 触れられた場所は分厚いガーゼ越しのように感覚があいまいだ。痛くも痒くもない。そうして間近に対面することとなった壁紙はピンク色でもなんでもなく、クリーム色だと言うことを知った。赤いのは空なのだと、大気なのだと、ぼんやり考えてみる。その色から推測できることがあるとすれば、時間帯か組成分子か。
 口やかましい会話は、いつしかそこで途切れていた。上向きに戻らないなら、覆いかぶさり息を塞ぐぞ、とクリーム色の壁だけが語りかける。
『……お前さん、このデカいのを、どうするつもりなんじゃ?』
『うむ』
『死にかけとるにしても、外傷と急性中毒じゃ。時間を経ても息があるなら、手をかければわしでもなんとかなるやもしれん。ただし、じゃ』
 大きなため息だ。
『傷も癒えてクスリも抜けたなら、そのうちに好き勝手に喋り出すやもしれんぞ。お前さんは聞く気でおるのか?』
 静けさが、時の流れを止める。
『あるというのなら医者として手を貸すがの、しょせん軍に追われるような阿呆じゃ。その気が失せたというなら診療も時間外じゃしの、わしはつまらん世間話だけして帰る。ま、書類が必要なら、それくらいの手助けはできるじゃろうて。なにしろアーツェでヒトが死んだとなれば珍しいことじゃが、珍しいだけにどんな珍しい原因で死んだとしても、誰も疑うまいてよ』
『……リンデロン、お前さんも、似たり寄ったりヤクザじゃの』
『は。善き者じゃから忠告してやっとるまでじゃ、サス』
『はん。わしとて同じじゃ。善き者じゃから、受けた恩義をこやつに返したいと思うて、お前さんを呼んだ』
『恩義? 何をか知らんが、それはこやつも望んどることなのか? 喋るハナシが胡散臭いだけとは限らんぞ、アタマがイカレてしもうておるやもしれん。それでも引き受ける気でおるのかということじゃ。棺桶から引きずり出したものの、辛いことになるのはこやつだけという場合もある』
 そこでようやく、体は上向きに戻された。
 窓が視界の隅で歪む。
 笑うそれを睨んで返した。
『それは助けてやらんと分からんことじゃろ。もしまともでおったなら、わしは望むところを後押しするまでじゃ』
『なら、昔のよしみではっきり言ってやるがの、犯罪者をかくまうなんぞ年寄りのすることではないぞ』
『ほ。そういう輩ならの、ジャンク屋でなんぼでも面倒みとるわい』
『お、なるほど。それはうっかり忘れとったな。この、ヤクザじじいめが』
『一言、多いわ。とにかくリンデロンよ、助かりそうだと言うなら、とにかくやってくれ。わしはそれを望んどる』
『う、む』
 それでも窓はケタケタ笑っていた。
『たく、どうしてわしがこのヘンコツもんと付きおうとるのか、いまだにわからんな。そこまで言いおるなら、代金の請求できる仕事に手をつけるが、じゃがな、もう一度言っておくぞ、サス。わしは、後の事まで診きれんからな』

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