ハードボイルドワルツ有機体ブルース 2.5

              





ACT 6

 太陽光に焼かれた船体は、炙られたフライパンそのものだ。
 登ったそこで、投げ出した両足を遊ばせる。
 『アーツェ』への入港は感染症の疑いで拒否される可能性も大なら、 血染みのついたシャツは捨てても構わないと思っていたたが、購入者に一張羅なら大事にしろと言われ断念していた。 おかげで洗剤入りの袋、ディスポーサブルウォッシャーの中でシェイクされたそれは、こうして目の前、 サスが引っかけたアンテナの先で元気よさげとはためいている。
 それ以上、丁寧に扱ってもらってもいいと思えるブレードの傷口へは、吸収性の癒着絆が貼られたきりとなっていた。
 それもまた太陽の下にさらして、シャツが乾くまでを待つ。
 見下ろせば、荒野が地平線をたわませ果てしなくどこまでも広がっていた。 眺めるだけなら退屈することこのうえないが、わたる風はすこぶる心地いい。
 空はじき夕方へ色を変えてゆくだろう。 スペクトル分解。青は、『アーツェ』と同じ波長を放ち赤くなるのだと、ぼんやり考えながらアゴを持ち上げる。 つられて口は開き、声は背後からかけられていた。
『まったく、どうして帰ってなんぞ来おった?』
 振り返ればそこに、のぞくサスの頭を見つける。船側に設えられた足場を登ってきたのだから、 よほど邪魔だったに違いない。目が合うなり握っていたドリンクのパックを、投げつけられていた。 受け止めラベルを確かめてから、キャップのストローをパックの中へ落とし込む。 渇きを覚え始めていた喉へ、中の液体をただ勢いよく吸い上げた。
 億劫そうな声を上げながら船へあがってきたサスは、隣へ腰を落としている。 見晴らしを確かめると同じように、ストローを押し入れ、やたらうまそうにパックの中身を飲み始めた。
 そうして一服ついた互いの間へ、ことさら風は強く吹きつける。
『それから、どうしてスオードの事を知っとった?』
 遠慮気味にサスが付け加えて問いかけた。
 そういえばパトロール船の動力部にはそう言う愛称がつけられていたかと、記憶をなぞる。
『あれだけじゃない』
 もう潮時だと、観念するしかないようだった。
『店の品は、ほとんど理解できる。言えばややこしくなるだろうと思って、黙っていた』
 ストローから離した口を開き、伸ばしていた足を引き寄せる。
 聞いて顔を背けたサスは、そこで冗談だろうと笑っているらしい。ままに遠景へ視線を投げ、あさってへと吐き捨てた。
『何が覚えておらん、じゃ。記憶がないなどと言いおって。ないどころか、大アリときとる。 まったく、お前さんも相当のサルじゃの』
 さらに遠くを覗き込む背が、傾いでゆく。
『……金は足りとろうが。なぜ戻らん』
 それはどこか様子をうかがうような言い方だった。 しかしながら答えられないことに変わりはなく、ただうつむく。 思い出したようにストローへ食いつき、パックの残りを一気に吸い上げた。 真空に潰れたパックはすぐにもて用を足さなくなり、遊び飽きた玩具よろしく投げて、勢いのままに背後へ倒れ込むと、 焼けた船の上へ両の手足を大の字と広げた。視界いっぱいに広がった空に掴みどころはない。 ただ太陽光がジリリ、体を焼き付けていた。
 どれもこれも否定できないことだらけだ。
 ならこれもだと、焼かれるにまかせて息を吸い込む。
『だが肝心なことが思い出せない。どこにいて何をしていた誰なのか。名前も何も浮かんでは来ない。 そんな知識がなんだ。俺は、自分のことの方が知りたいッ』
 きつく目を閉じた。両腕を枕代わりと頭の下へくぐらせ、寝返る。 サスへ背を向けると、ぎゅっと体を丸めた。
 沈黙はぎこちなく、やがてのそりと、サスが振り返った気配を感じ取る。 様子をうかがいのぞき込む影が、閉じたまぶたの向こうに落ちた。
『それで、言われた通り買い物だけして、戻って来おったのか?』
 呆れたような声だ。答えてやらなければ、今度は哀れむようにトーンを下げる。
『なんとのう』
 妙に腹立たしく聞こえるのは、なぜか。
 そこでサスは、のぞき込んでいた体を下げたようだった。
『覚えてないと言い張るは、てっきり探られたくない腹があるからじゃと思うておったが』
 しみじみと繰り返す。
『本当に、覚えておらんと言うか?』
 念を押しと確かめた。
『どうせイカレたジャンキーだ。行くあても、帰るところもないッ』
 辛うじて返せば、鼻溜は背後で思案に大きな息を吐き出している。
 風が負けず劣らずゴウと吹いて、かすかな喧噪をどこからともなく運んできていた。 それが街のものなのか、また別のざわめきなのかは分からない。 ただサスの切り出し方は、そのざわめきの一部のようでそつがなかった。
『なら、どうじゃ。わしの元でジャンク屋でもやってみんか』
 閉じていた目を開けていた。思わず悪いものでも喉に詰めたかのような顔で振り返ったなら、 そこで心配などこれっぽちもないとサスは笑っている。
『なぁに、適当なことを言うておるんじゃないぞ。まずお前さんは、稼げるジャンク屋に必要な知識を持っとる。 それも相当にの。でもって船も飛ばせる。造語もこうして不便がない。 お前さんは自分をイカレたジャンキーじゃというが、イカレたジャンキーは自分のことをそうは話さん。 造語での話しぶりとて、少なくとも阿呆には見えん。近頃、体もしっかりしてきた。 そのうち女の尻も追いかけ始めたなら、問題なかろう。そのうえ曲がったことが気に食わんときとる。 わしの取引相手には、そこが一番、重要での。だいたいわしも儲けんといかん。ノウハウはわしが教える』
 話しぶりはもうやると決めたかのようで、矢継ぎ早に並べ立てるとずい、と体を乗り出した。
『どうじゃ? やってみる気はないか?』
 その目はあまりに真剣で、真剣だからこそ面食らう。 いや、何も、躊躇する気がかりがあるわけではない。そんな過去こそ持ち合わせてはいなかった。 面食らうのは、唐突すぎる提案に心がまえができていないせいで間違いない。 ならばなおさら、言われるがままを受け入れていいのかと、慌ててその場に座りすわした。
『待ってくれ』
 絞り出す。
『確かに船は飛ばせる。だが、俺はその船を持っていない。光速に乗れるIDもない』
 懸念はほかにもあるはずだが、取り急ぎ思い当たったことと言えばそれくらいだ。 するとサスは予見していたかのように調子を崩すことなく、こう切り出してみせる。
『船ならある。デミの、孫の初乗りに取り置いておったスクータ船が格納庫に眠っとる。 あれを使えばよい。船代はローンじゃ。その船で回収したジャンクはわしが買い取る。 そこから船代を差し引く。ウチは低金利の優良プランじゃからな。お前さん、ついとるぞ』
 どうにも最後の一言が、悪徳商人のおだてセリフに聞こえてならないが、このさい目をつぶるほかなさそうだった。 当のサスも気にすることなく、IDの件もまた一蹴している。
『IDはギルドで偽造モノが出回わっとる。むしろ正式なIDより、この商売ならそちらの方が便利じゃろうて。 口座を開くには手間取るじゃろうが、わしの店が噛めばそれも問題ない』
『だがスクーター船じゃ光速には乗れない。アーツェの周辺で衛星を漁ったところで、 一生あんたを儲けさせることなんて無理だ』
 言わずにおれなかった。とたん不敵な笑みに膨らんだのは、サスの鼻溜だ。 おそらく『マイスリー』がこの顔を見ていたら、取引は最初から不利だと分かっただろう。
『何を言いおる。あろうが、とっておきのヤツが』
 理解できずに眉をひそめた。
『お前さんはアレを偽物だと見抜きおった。確かにそうじゃ。じゃが、全部がハリボテと言うわけではないぞ』
 前にして、サスは続ける。もちろんアレとは、まだフロートに乗ったままカーゴに放置されている動力だ。
『どうしてわしが怪しげなアレを買い取ろうとしたか、分かるか?』
 たずねる物だから、首を振って返すしかなかった。
『外して吊ったあのユニットは、確かに動力でもなんでもないガラクタじゃ。 じゃが、わしが覗き込んで確かめた残りのユニットは、ホンモノじゃ。間違いない』
 まさか、と耳を疑う。
『そして欠けたハリボテ部分は、似たような手合いからすでに買い受けておっての』
 立て続け、絶句していた。
 明かして鼻溜を振るサスの眼光は、ことのほか鋭い。
『バラしたのは手元の部品と品番がおうとるか、それを確認するためじゃ。 そっちもバッチリおうとる。わしが思うに、おそらく最初、持ち出そうとした誰かは、 単体では無理じゃいうことで、バラして流したんじゃろうな。だがそれが再び組み合わさることはなかった。 もちろん、わしの手元に回ってくるまでは、と言うことじゃがの』
 そこでサスの語気は強くなる。
『さて、うまく組み合わせられるかは、わしらの腕次第じゃ。だがピースはそろった。久々に腕がなるのう』
『ならあの時……』
 つまりそれは言うまでもない顛末だ。
 おかげで思い出したか、気合にふくらんでいた鼻溜を潰してサスは額をかいてみせた。
『ま、そういうことじゃ。じゃからお前さんが乱入して来た時は、どうなることかと思ったぞ。 二束三文のガラクタで取りっぱぐれんようにと、相手も法外な値はつけてこなんだからな。 いい具合に値切れておったしの。まったく、マイスリーがくれてやると言った時は、どれだけ嬉しかったか』
 叩いて話にオチをつける。
 確かに、全てを知った今ならあれは営業妨害そのものだろう。
『そいつをスクータ船に積むのか?』
 信じられず問い返していた。
『ちょうどじゃろ』
 至極単純にうろたえる。
『俺には支払えない』
 それとも一生タダ働きさせる気かとさえ、思っていた。
 ならサスは、思い出したように催促の手を突き出す。
『そういえば釣りはどうした? ほれ、お前さんに渡したろう。変換ユニットの電子ウォレットじゃ』
 そういえば尻ポケットへ突っ込んだまま、ゴタゴタにかまけて返していないことを思い出していた。
『ああ。すまない』
 まだ相当の金額が残っているはずで、短く答えて尻ポケットから引き抜く。 早くしろと急かすその手へ渡した。握ったサスは胸ポケットへしまい込みつつ、鼻溜を振る。
『これで十分じゃ』
『は?』
 不可解に歪む顔をごまかすことはできなかった。 前で商人の言い分は、さらに不可解を極めてゆく。
『船はデミに新しいのを買ってやらんといかんからの。 ローンにするが、これは一度お前さんにやった金じゃ。それでお前さんは今、アレをわしから買った。 なに、アレの半分は、お前さんの奮闘でタダで手に入れたようなもんじゃ。 これくらいでちょうどよかろう。それにどこぞの企業に売り払ったとして、こっちへ投資した方が見返りは大きいと、 わしはよんだ』
 本気でそう考えているのか。思わずにはおれなくなる。そしてそう疑えば疑うほど、こみ上げてくる笑いを堪えることが出来なくなっていた。 挙句、吹き出すと、揺れて引きつった肩に痛みを覚え、癒着絆へ手をあてがう。
『サス、あんたこそ妙なクスリをやってるんじゃないのか?』
『おお。初めて笑ったの』
『当たり前だ。これが笑わずにいられるか』
『ますますいい調子じゃ』
『あんたが面白すぎる』
『お前さんも、ずいぶん興味深い』
 商品と同じに扱われては困ると思ったが、そこでサスははたと鼻溜を硬直させた。
『いや、いつまでもお前さんではいかんの。偽造IDにも貼り付ける名前が必要じゃ』
 と、立ち返った憂鬱な話題に、せっかくの笑いはなりを潜めてゆく。
『この先、使う自分の名前じゃ。思い出せんと言うなら、それくらい自分で好きなものを選んでつけい』
 その通りだと思えていた。 すぐにも何か、どれか、工面しなければと眉間に力もこもる。せめて自分の名前くらいは思い出せ、と念じた。 だが何一つ蘇ってはこない。選ぶことは相も変わらず苦手なままだった。
 ただひとつ、だ。
 ただひとつ、その過程で感じ取ったことに、思いがけない気持ちを抱く。 そう、「この先」と言う言葉の響きに何か、どこか、湧き出す力を感じていた。 それは記憶ではなく体をうずかせると、やがて思い出さなければ困るだろう何かがあったことを知らしめた。
 それは「青」だ。
 閃くままに広がる空へ顔を上げる。
 そこで風は吹くとアンテナに引っかかるシャツを翻し、一握の砂埃を舞い上げた。
 何を選ぶのか。
 彼方から、立ちはだかる壁のようにまた問いかけられる。
 どこだ、とまた目で追っていた。
 瞬間、体は宙へ舞い上がる。いや、空が落ちてきたのかもしれなかった。 天地は消え去り、そこにショーウィンドで流れていたモデルの女は大きく重なる。顔が視界いっぱい広がっていた。 その瞳は空の青を透かしてこちらへ、こぼれんばかりのほほえみを投げかけている。
 お前なのか。
 問うが答えず遠ざかってゆくモデルの女に吸い上げられて、今度こそ自分の体が空へと舞い上がったように感じていた。
 気づけば辺りは青に満たされている。満たされていると思えるほどに、頭の中は空っぽで、 向けて届かぬ頭上から、女はあのウインクを放ってみせる。
 あなたは、何を選ぶの?
 言う声は、映像から漏れていたものとは違っていた。だというのに胸に刺さる。 知りもしない声だというのに、痛いほど懐かしさを感じていた。とめようなく目頭が熱を帯び、 忘れはしない、言葉はもれて、何をと己に問い返せば語るにふさわしい名はそれしか知らないと、 耳の奥で「誰か」は相槌を打つ。それこそ自分自身だと気づいたなら、 その自分は忘れて困るその名を引き上げろ、と記憶の底へ手を浸した。 そうして握りしめたのは「この先」という言葉で、力の限りに手繰り寄せ始める。
 連なりそこから姿を現すのは過去の全てか、それともこの得も知れぬ懐かしさの正体か。 どちらだろうとかまわなかった。ただ傍観している場合でこそなく、手繰るその手へ慌てて己が手を添える。
 一人だが二人だった。
 そろって力を合わせる。
 これでなければならない。
 力を込めるほどに感じて止まないそこには必ず「無条件の欲求」が、根拠となる過去が結びつけられているはずだった。 その通りといつからか、背後で子供も火がついたように泣き叫んでいる。鳴き叫んで子供は、 失くしているからこそ途方に暮れているのだとすれば、 再びこの手へ取り戻せたとき全てはうまくゆくのだ、と励ましていた。
 そうしてついにたぐりおえる「この先」の全て。そこにはたった一言、こう言葉が結びつけられていた。
『アルト、だ』
 唇から零れ落ちる。
 響きに、また幻をさ迷ったのかと瞬いていた。 そのたびに濡れてまつ毛は重みを増し、重さが最悪を想像させる。 だがこれが幻だとしてまだ続きはあった。世界はそこでたった三文字の響きを吸い上げると膨れ上がり、 青の全ては一足飛びに遠ざかって女も消え、ただそこに影をつけると触れることのできるカタチとなって 浮き上がる。とたん視界は明るい窓へすげ変えられると、 その窓はすぐにも親しみのこもった声で触れていいのだとさえ、語ってみせた。
『アルトだ』
 繰り返して世界へ触れる。
 幻どころか抜け落ちていた力が、能力が、舞い戻った手ごたえこそがそこにあった。
 理解できない。
 しかし帰ってきたのだ、と懐かしさで訴えてくる。その懐かしさに安堵の限りはなかった。
『それがお前さんの、新しい名前か?』
 隣でサスが小首をかしげている。
 答える前に、顔ごと涙を拭い取っていた。
『新しいものじゃない。今、思い出せた』
 ふりかえれば、アゴを撫でるサスの面持ちは興味深げだ。
『ほほう』
『これはきっと俺の名前だ。ひどくしっくりくる。生き返った気分だ。間違いない』
『アルトとのう』
 繰り返してひどく感心し、かと思えばポン、とひとつ膝を打つ。
『なかなかよい名じゃ』
 適当なことを、とは思えなかった。
『俺もそう思う』
 言えば、サスは冷やかし笑って立ち上がる。 そのまま船首へ歩み寄ると、すっかり乾いたシャツをアンテナの先から回収した。 なるほど、地平線はいつしかぼんやり紫がかってきており、仕上がりを確かめたサスは、 広げたシャツを景気よさげにはたいて振り返る。
『なら、アルトよ』
 取り戻したばかりの名で呼ばれて、丸まっていた背筋も伸びていた。
『さっそくじゃが、お前さんに仕事じゃ』
 真正面と見つめるその顔にはもう、よそよそしさなど欠片もない。
『フロートのアレを、抗Gネットで吊るしてきてくれ』
 気が早いのも老い先短いせいで間違いなく、そうして作ったしたり顔で、意地悪い忠告さえ放ってみせる。
『言うておくが、重力下での作業は骨が折れるぞ。 いや、まあ、あれはもうお前さんのもんじゃったかな。なら、よけい壊さんように取り扱え』
 鼻溜を振って洗い立てのシャツを押し付けた。
『五百セコンド後、アーツェへ向かいここを発つぞ』
『五百セコンド?』
『わしは待たんからの』
 それきりとっとと、船側の足場を伝い下へ降りてゆく。
『な、おいッ』
 追いかけるべく、慌てて頭からシャツをかぶっていた。 太陽の匂いがたまらなく心地よい。カラリとした肌触りも、いてもたってもいられない気分をあおって止まなかった。 翻して、弾かれたようにうに尻を持ち上げる。
『じいさん、それじゃ短すぎるだろッ』
 「この先」に必要なものは、もうそろっていると思えてならなかった。 行ける場所はなくとも行きたい場所なら選び出せそうで、取り戻した名が導いてくれると、信じていた。 いや、その名を取り戻した自分を信じることができていた。

「だいたい高周波ブレードっていえば熱傷だ。サスのやつ、適当に癒着絆で済ませるから跡が残ったんだ」
 専門分野が違うとこうもずさんになるものかと、アルトは眉を寄せてネオンの指さしたそこへアゴを引く。
「癒着絆は裂傷用で、もう少し説明書……」
 と隠して、ネオンが額を押しつけた。軽く振れた鼻先で温度を確かめる。 そんな気配が、張り出した薄い耳から立ちのぼっていた。
「どうか、したか?」
 少しばかり戸惑って、アルトはその背へ手を添える。
「ちょっと驚いただけ」
 そうしてネオンはわけを明かした。
「名前の理由、知らなかったから」
 ならアルトも言葉を付け足すことにする。
「最初からそうだ。離れたせいで、なおさら強く感じただけさ」
「いつだって懐かしいニオイがする」
 吸い込んだ声がくぐもった。
「けど、おかしいな……」
 ままに伸びたネオンの腕がアルトの脇を、くぐりぬける。
「近づけば近づくほど知らないことだらけ。どんどん別の誰かに思えてくる。 淋しいって思えて仕方なくなる」
 しがみつく力でそれ以上を、理屈の外へと押しやっていった。 そうしてこぼれた全てを受け取れば、アルトもまた色の薄い髪がかかる首筋へアゴを絡ませる。 引き寄せたカタチがこうも馴染むのは、同じ名の元にあるもう一人の自分だからで間違いないだろう。 だからこそアルトは笑った。
「何言ってんだ。お前らしくねーな」
 この言葉を選ばせたのも、きっと青からの問いかけに違いない。
「そういう時はだな、切ない、って言うもんなんだよ。ばーか」
 応えて笑った息が胸元に湿っぽさを残し、身を離したネオンがその顔を持ち上げる。

『ハードボイルドワルツ有機体ブルース 2.5』終

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