ライブチャットの天才
この作品は、フィクションであり、登場する個人名、団体名は全て架空のものです。
また、解説されている医療行為等に関しましては、事実と異なる場合があることをご了承ください




見えるところ

              





-2-

 だいぶ汚れたナースシューズのバックストラップを踏みながら、タイムカードを押し込む。
 救外は、タイムカードの据え置かれた受付前の待合ロビー、その一番奥だ。便宜上だろう、向かいはレントゲン室となっている。
 わたしは整形外科、外科、消化器内科、内科と左右に並ぶ診察室をやり過ごし、待合ロビーのほぼ中央、各科の指示で点滴を作り、注射をうち、心電図も取れば、採血もし、検査予約にその説明と、雑多な作業をこなす処置室のドアを開いた。おかげで薬も機材も満載の部屋が目の前に広がる。待合ロビー側から見れば個室のような各課も、奥でつながる様子が一望できた。つまり、隣の救外も例外ではない。
 わたしはとりまえず、おはようございますと声掛けする。だがもとより人数の少ない時間帯だ。救外に患者が入れば、そこに誰も詰めてはいなかった。
 貴重品の入ったカバンを所定位置に放り込む。
 隣の救外から、痛みを訴える患者さんの唸り声を、耳にした。
 朝の準備もあるが、ひとまず様子を見に行くか、とわたしは踵を返す。
 と、やおら先手を打って急外から、表で目にした看護師が足早に飛び出してきた。この病院へ常勤として勤めだしてまだ一年にも満たないが、以前の病院ではオペ室を担当していた経験豊富な四十代の看護師、田渕さんだ。
「何?」
 わたしは短く尋ねる。
「療養所で吐血。カメラ」
 すれ違いざま教えられた。
 などとドラマならかなり深刻な演技が常だが、ここでそんなシチュエーションに出会ったことはない。どちらかと言えば、みな、まかせてといわんばかりの笑顔だ。
 田淵さんもまた慌てることなく、それきり消化器内科の検査室へGIF、いわゆる胃カメラの機材一式を取りに向かう。入れ違いでのぞいた急外には、デスクへ向かいカルテを埋めるドクターと、ストレッチャーの上で目を閉じたきりの患者がいた。
「おはようございます」
 挨拶すれば、ドクターはひと言目に、ん、とだけ言って、一気に書き上げただろうカルテから振り返った。患者と向かい合う。
「今からね、カメラで胃の中、見させてもらいますね」
 枕元には吐血用の、のうぼんが置かれている。ここへ到着してからは吐いた形跡がない。
 とりあえずわたしは、光源と呼ばれるカメラ本体が据え置かれる場所をあける。
 と、急外、待合側のドアに影が映った。田渕さんだ。手がふさがっているだろうと、ドアを開く。なら田淵さんは、液晶モニターをぶら下げた塔のような光源を押してレールを、乗り越えた。
「ありがと」
 これが案外、思い。わたしも手伝い、光源を急外の中へ引っ張り込む。空けた患者の枕元でキャスター踏みをロックした。
 コンセントは3つ又だ。
 差し込む。
 あいだ田淵さんはドクターに、鼻からのカメラなのか、口からのカメラなのかを、使用する麻酔剤の内容を確認していた。ドクターが口と答えている。すかさずドルミカムと呟くのを聞いた。
 残念ながらわたしが手伝えることといえば、実際にカメラが始まったときの介助くらいがせいぜいで、ほかには何もない。
「処置室、点滴準備してます」
「うん、お願い。誰か来たら、コッチと代わってもらって。夜間の申し送りしないとダメだから」
「了解」
 だからして通常業務へ戻る旨を伝え、離れる。
 そもそも点滴目的の外来患者は、少なくない。ぼやぼやしていると診療時間はきてしまう。案の定、処置室の長机には、点滴を待つ患者のカルテが山と置かれていた。わたしは片っ端からカルテを開き、点滴内容の転記と、指示されたボトルへ患者の名前を書き込んでゆく。うちにもひとり、またひとりと、看護師に同僚らが出勤した。
 まだ表に止まっているのだろう。救急車を見たそれぞれが、なに? と、開口一番、聞く。手短に状況を伝えたなら、カメラを得意とする看護師が急外へ向かった。ここへ来る前も担当していたという、四十代の鈴木さんだ。
 時刻がせまれば合計十名の外来勤務者が処置室に顔をだし、同じくぞくぞく押し寄せてくる患者らに受付からカルテは小刻みと運ばれ、誰もが担当の診療科へ消えてゆく。静かだったはずの待合には雑談の声が響き、リノリウムの床を歩く人の乾いた足音が交錯した。
 わたしも点滴の準備を途中で看護師へ預け、担当の診療科へ向かう。わたしの担当科は、今、急外で胃カメラ検査を受けている患者が入院となれば手続きをしなければならないだろう、消化器内科だ。内科といえど、検査から発見される疾病がガンであったり、ポリープであったり胃潰瘍であったりするため、その実、外科に直結する診療科だ。他の科に比べると、患者数は多くないが、診療は予約検査と平行して行われるため、案外と手間取る診療科でもあった。
 すでに急外でドクターは、カメラを実施中である。ふまえたなら診察開始は定刻より遅れるだろう、とわたしはよんだ。しかしながらそういう日に限って、予約検査は満杯。診療患者数も、いつもより多いときている。
 どうやらタフな一日なりそうだ。わたしは開いたカルテへ、くまなく目を通しつつ、鼻から生きを抜いた。
 その全てに目をとおすまでもなく、申し送りの時間は迫る。
 鈴木さんと交代した田淵さんだ。ゴム手袋は脱いでいたが、使い捨て(ディスポーサブル)のナイロン製エプロンをかけたまま、小走りで処置室へ駆け込んでゆくのが見えた。わたしは作業を中断し、その後を追いかける。出来上がった点滴が山積みにされた長机の周りにはもう大半がそろっており、その隅にわたしも立った。ならおっつけ婦長、いや今では師長と呼ぶわけだが、最後に処置室へ現れる。いつもの間合いで病棟の空室を確認しつつ、田淵さんへどう、と言葉を投げた。
「血を吐いたのが早朝だったので、絶食状態はよかったんですけれど、まだちょっと出血があって、肝心なところが見えないですね。だいぶ苦戦してます」
「じゃあ、入院だね」
「ええ、そうなると思います」
 返す田淵さんは始終、笑顔だ。
 と、師長がわたしへ振り返った。
「と、いうことでヨロシク」
「あ、はい」
 これまた笑顔で指示を出す。  朝からの一撃に、わたしの笑いは引きつり気味だ。
 他にも周囲では特殊な患者の打ち合わせやドクターのスケジュール確認、オペの有無等、時間を惜しんで担当部署ごとにやり取りを交わし合っている。割って入るように田淵さんが、エプロンを脱ぎ長机へ日誌を広げた。
 びっしり書き込まれた患者の名前は、時間外診療の件数と合致する。申し送りとは、そうした患者データの共有であり、予定に決定、注意事項の確認だった。
「おはようございます。えー、一月十二日、水曜日の申し送りを始めます」
 ひと声で、あれほど騒がしかった話し声が、待合の患者さんのそれを残してピタリ、止む。
 内訳は季節柄か、熱発が四名。いずれもインフルエンザウィルスチェックをするも、一人をのぞいて結果はマイナスらしい。プラスの一人は、三十二歳、男性。もれなくタミフルを処方。自宅での安静を指示とのことだ。他、六十七歳、男性が、飲酒からみの外傷。これは医療用ホッチキス、ステープラーにて、ぱっくり割れた額を留め、タクシーでご帰宅いただく。あと、明け方に下痢、嘔吐が一人。点滴のち薬を出し、まだ具合が悪い様なら今日の外来にかかってくださいと案内。これは四十二歳、女性ということだった。
 と、田渕さんが病棟の空床報告を読み上げそうになったところで、急外から鈴木さんの声が飛ぶ。
「誰か、手伝って!」
 田渕さんが、あ、と言って、離れられないことを訴えていた。ほぼ同時に動いたのは、勤続二十五年、外来主任の古井さんだ。鬼の古井と呼ばれるほど仕事に厳しい古井さんの、こういう場面での判断は本当に早い。
「中山さん」
 両腕を組んだまま、向かうよう視線を急外へ向ける。
「えー、あたしかいな」
 中山さんの外見は小柄で細身。内面は面倒くさがりで通っているが、何でも器用にこなすため、様々な場面でのイザという時に抜擢が目立つ。つまりそれだけ信用されているということでもあるのだが、恐らく今日は担当診療科を持たないフリー、という立場が理由なのだろう。
「はい、申し送り、つづけましょ」
 中山さんは急外へ走り、ピシャリ、古井さんが話を戻した。
 その後、病棟の空床報告がなされ、婦長からの話があり、スクラムを組むような具合でお疲れ様、の声をかけ合い申し送りは終了する。それきり各診療科へ、みな散っていった。
 わたしも処置室を出ると、急外の向かい側にある消化器内科へ向かう。
 待ち構える患者で待合の椅子は、全て埋まっていた。
 その中に今日も、見慣れた顔を見つける。

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