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消化器内科の診察室は、狭い。ドクターの机とわたしの作業机、そしてベッドがひとつ置かれているだけで、ほかにはもう何も置けそうにない。
同じ空間の、仕切りを挟んだ向こう側はカメラ室となっており、診察と平行して胃カメラや大腸カメラの検査を行う。また、いったん部屋を出た隣には、エコー室があり、腹部エコーの実施も可能だ。
これら検査は複数のドクターが分担で担当することもあれば、一人で全てこなすこともある。今日は後者にあたり、今、急外でカメラを実施しているドクター、宇田ドクターが予約分をこなす予定にあった。
整理し終えたカルテをドクターの机へ積み上げる。わたしは隣り合うカメラ室の様子をのぞきに向かった。なぜならこんな日に限ってカメラ室の担当は、先月入ったばかりの看護師、橋本さんだからだ。急外で田渕さんに代りカメラを行っている中山さんはフリーゆえ、この橋本さんのサポートがおおむねの担当となるはずだったにちがいない。しかし現実、今は一人である。しかも光源が出払っているため、何の準備も出来ない。加えて検査時間までまだあるというのに、患者はすでに来院しているらしかった。カメラ室で橋本さんは、届いたカルテをとりあえず処理している。
「今日、カメラが3に、エコーが4だよね」
わたしはそんな橋本さんへ、確認した。
「そうなんです」
それだけで、少々パニック気味であることが伝わってくる。
「とりあえず、あっちが終わらないとだめだね」
「こんな時に、もう」
「向こうが片付いたら、診察、あるぶんだけやっつけるから、その間に今、来ている患者さん準備しておいて。できたら教えて。診察、適当なところで切るから。で、次のカメラ準備している間に、来たエコーは、わたしがドクターにつくから」
「お願いします」
笑ってこたえて、わたしは急外へ向かった。
ドア越し、吸引のモーター音が耳につく。
やっているな、と今さらながら実感して、静かにドアを開く。外から見えないよう引かれたカーテンの隙間へ身を、もぐりこませた。
「いいところに来た」
とたん、宇田ドクターの指示は飛ぶ。
「はい?」
「手袋して、ココ、持って」
ストレッチャーに横向きで寝かされた患者は、口からカメラを挿入中。枕もとの光源モニターには、そんな患者の胃の腑が映し出されている。
赤と白。
どうやらだいぶと荒れている様子だ。
上へ、ジワジワにじみ出てくる血も見える。
広がるたびにカメラの先端で吸引は続き、一瞬、深くえぐれた患部が白くのぞいた。
ボタンにダイヤルのついた操作部を片手で器用にいじりながら、もう片手で管を出し入れしつつ、宇田ドクターの目はそんなモニターに釘付けとなっている。脇で操作部のカンシ口からカンシを挿入した状態で中山さんが、寄り添い待機していた。
わたしは台車の上のゴム手袋を箱からつまみ出す。利き手にはめた。
宇田ドクターが言ったココとは、患者の口元、挿入されているカメラの管だ。恐らく挿入されたかんしの先は、クリップだ。出血部位にかけるのだ、とわたしは察する。ハズさないために管を固定すべく、わたしもまたモニターを睨み、言われた通り管を押さえた。
「吸引」
宇田ドクターが促す。
「見えたら留めるからな」
かんしの、注射器にも似た操作部へかけた指へ中山さんが緊張を張り巡らせ、モニターの中で泡立ちながら血液が吸い上げられてゆく。
押さえているだけのわたしも、緊張する一瞬だ。やがて白くえぐれた患部が顔を覗かせた。その奥に血管が、はっきりと姿を現す。
「もう少し、奥」
宇田ドクターが、押さえていたわたしの手ごとカメラを少しばかり押し込んだ。カメラの先にのぞくクリップが、患部に接触する。
「クリップ」
「はい」
中山さんが答えてかんし手元のトリガーを引いた。バチンと音が聞こえてきそうな勢いでクリップがみごと、血管を挟みこむ。
「オケ。もう一個」
言われるまでもなく、中山さんは素早く手繰ってカンシを引き出している。一メートル足らずのかんしの先をガーゼで掴み、新しいクリップを装着した。手際に淀みはなく、再びクリップの装着されたかんしが宇田ドクターへ手渡される。宇田ドクターは引っ掛けることなく、かんしを狭いかんし口へ差し込み、カメラ先端へ一気に送り込んでいった。二つ目のクリップが、わずか数秒で再びモニターの中に顔を出す。
すでに一つ、クリップで患部を止血したため、吸引はもう必要ないほどに出血はおさまっていた。
「離していいよ」
宇田ドクターがわたしへ言う。
念押しの二つ目は、角度を変えて挟むらしい、宇田ドクターはカメラを手繰りなおすと位置を探った。
「ん、挟んで」
「はい」
まさに連携プレー。
二つ目のクリップが患部へ食らいつく。あとは後退しながら見逃しがないかを確認しつつ、食道から口へカメラを抜いてゆくのみとなっていた。
「はーい、森本さん。終わったよ。出血していたところは止めたからね。今日は、このまま入院して、しばらく絶食。点滴で様子みましょう。はい、最後、口から抜けるとき、ちょっと気持ち悪いよ」
と、明々とライトを灯したカメラ先端が、患者の口から出てくる。手早く中山さんが回収し、預けた宇田ドクターは手袋を脱ぎ捨て、カルテへ振り返った。
検査が終わると患者はどうしても、動きたがる傾向にある、なだめてわたしは、フットペダルを踏み込み、ベッドの高さを下げる。
「はい、ベットが動かなくなるまで、じっとしていてね」
背で、宇田ドクターが中山さんへ声をかけていた。
「入院の指示書、医局で書くから、上げておいてくれ」
すでに外来診察は開始時刻を十五分、押している。外来診療を優先させての指示だ。
「はい」
中山さんが答え、わたしへ顔を向ける。
「入院、わたしが上げとくから、診察行っていいよ」
「わかりました。橋本さん、呼んできます」
「光源、胃腸科へ持って行って。向こうも予定詰まってるし」
言葉をかわしながら、わたしはゆっくり起こした患者へ口を開く。
「今から、入院の準備しますね」
「お願いします」
辛うじて答える患者の声は、弱々しい。
「診察、行くぞ」
と、宇田ドクターは診察室へ向かい急外を出て行った。
ところで医者は頭脳明晰、と言うイメージがある。つまるところ小さい時からお勉強のできるタイプだ。だがしかしその実、医者として働き続けるに欠かせないのは、体力だとしか思えない。
ゆえに現役バリバリのドクターは、おうおうにして体育会系だ。
身長一九四センチ。体重八九キロ。五十歳を越えているなどとは到底、見えない宇田ドクターも、多分にもれずその一人だった。
胃薬、便秘薬など、定期薬処方の薬を求める患者を世間話と共にさばく。やがて腹痛を訴える七十代の男性が診察室に現れたなら、ベッドに寝かせての触診は始まった。その前準備、寝かせて服をめくりあげるまでは、わたしの役目だ。あてがった手のひらを指で叩いて張り具合を音で聞き分ける。済めば、起こす間もなくレントゲンの指示に、炎症度を調べるための院内採血指示はわたしへ飛んだ。
「腹部、二方向。院内CBC、生化な」
「尿アミ、アンモニア抜きで?」
「いや、時間がかかるな。CRPだけでいい」
「はい」
院内採血とは、採血検査は外部発注のため結果が翌日となるところを、採血からおよそ十五分、院内で結果を出す緊急採血検査のことである。
確認しつつ痛がる患者を起こす。待合ロビーまで付き添ったところで、ちょうど通りかかった準看護師の上野さんを捕まえた。このままでは採血もままならないだろうと、車椅子の持ち出しを頼む。
診察室へ戻れば宇田ドクターはすでに、次の患者のカルテを開いていた。
「次」
「はい」
すかさず患者を呼び入れる。わたしも顔をよく覚えている定期薬の患者だ。先ほどの検査書類をそろえることができるとすれば、そんな患者とドクターの他愛ない会話の間だろう。だが、定期薬の患者の訴えは、いつもと違った。
「そうだね。前回胃カメラしたのは、もう一年半前だし。そろそろ見ておいてもいい時期だとは思うけれど」
宇田ドクターは返し、そうですね、心配だし、よろしくお願いしますという結末だ。
「予約しましょう」
待合側から、上野さんが患者を車椅子に誘導する声が聞こえてくる。その患者の検査書類を作成しながら、わたしは胃カメラのオーダー用紙を宇田ドクターへ手渡す。
胃カメラは前処理として軽い麻酔を使用するため、検査時、服用している薬があれば、その種類によって前日に服用を止めるよう指示する必要がある。その簡単な問診は始まり、合間を縫ってわたしは処置室へ、検査の予約ノートを取りに向かった。同時に、辛うじて仕上げた腹痛患者の検査オーダーを、採血は処置室へ、レントゲンは放射線科へ提出することも忘れない。組んだのは、検査の結果が出る時間差を考慮して、レントゲン撮影後に採血を行う段取りだ。
それぞれに声をかけ、予約ノートを手に診察室へ戻った。だがすでに患者の座っていた丸いスはカラとなっている。わたしの作業机には、先ほど宇田ドクターへ渡したばかりの胃カメラオーダー用紙が、キッチリ必要事項を記入された状態でカルテに挟まれ投げ出されていた。
「日にち、決めておいて。はい、次」
その後、さらに胃カメラ検査のオーダーがなされ、バリウムを肛門から注入してレントゲン撮影を行う注腸検査の予約が入る。そうして診察が進めば用意したカルテは減り、しかしながら一方で受付を通った患者のカルテが未処理のまま積み上がっていった。しかしながら診察を切らぬようにカルテを準備しながら、重なる検査の予約を処理し、進む診察の補助にわたしは奔走する。
と、カメラ室とを仕切る扉が、わずかに開いた。隙間から顔を覗かせた橋本さんが、小さく顔の前でOKのサインを作っている。どうやら最初の予約検査の準備が整ったらしい。
投げられたタオルさながら、わたしは懸命に続けていた診察カルテの準備を止める。あいかわらずのスピードで進む宇田ドクターの診察は、ものの十分で積み上げたカルテを消化し、わたしは診察を切った。
「先生、カメラ準備できてます」
などと診察の流れを作ることも、大事な仕事なのだ。
「よっしゃ」
立ち上がれば、宇田ドクターは壁のように移動してゆく。すぐにも扉の向こうで、患者の名前を呼び、おまたせしましたねぇ、と確認する声はした。やがて光源の吸引音と共に、胃カメラ検査は始まる。
ならそこでわたしが出来ることと言えば病理検査、細胞の一部をつまんで取り出し、検査に出すことで癌化しているかどうかなどを調べる、が発生した時、検査書類を作製することくらいだ。そして病理が出るのは、カメラが消化器全体を見渡してからだった。わたしは検査を橋本さんに預け、進行状態を気にしつつ隣室で、診察でオーダーの出た検査予約の始末に没頭する。
あいだも遠慮なく、受付を通った患者のカルテが胃腸科へ放り込まれていた。検査後の診察にも備えなければいけない。しかしながら腹痛患者の院内採血結果とレントゲンはまだだ。
と、診察待ちカルテの一番最後にわたしは、一冊のカルテを見つける。一週間前、胃カメラ検査で行った病理検査の結果を聞きに訪れた患者のものだ。ドクターがひと目で検査結果を見つけられるよう前もって付箋を貼るべく、わたしはそのページをめくった。もちろん前もって目を通すことで診察の流れを掴み、対応するためもある。検査結果は、他の検査とまとめてひとところに、時系列で貼られている。
結果は『カテゴリー5』
詳細は横文字を交えた専門用語で綴られているため、わたしにはわからない。
だが、それがガン告知であることだけは理解できた。
「お願いしまーす」
やおら診察室へ、院内採血の結果が血液検査質から持ち込まれる。
受け取りわたしは、すぐさま数値へ目を走らせた。
CRP値 15.4
通常はゼロコンマ以下だ。
まずいなと思う。
入院かと、内心ひとりごちた。
カメラ室からは、宇田ドクターの声が聞こえてくる。
「生検」
病理検査だ。
わたしはカメラ室へ踵を返した。
敷かれたカーテンのせいで薄暗い。めくって隅からうかがえば、液晶モニターに病変部分は写し出されていた。少し白っぽく変色している。それだけでシロウト目にはよく分らない。
前にした橋本さんは、かなり気合が入った様子だ。三ツ又のついたかんしの先端を宇田ドクターへ手渡している。わたしは横目にとらえながら検査のオーダー用紙を用意し、テレビゲームのようなモニターを注視した。
すぐにもカメラの先に飛び出したかんしが、カメラごと患部へ接近してゆく。
「開いて」
片手で操作しつつ、モニターを睨む宇田ドクターの声は至って冷静だ。
「はい」
同様にモニターを見上げる橋本さんが、手元のピストンを押して、三ツ又カンシを開く。
「つかんで」
閉じたカンシが胃の粘膜に食いついた。
「よし」
宇田ドクターが、長いカンシを手繰り、回収する。その動作はとにかく早い。モチのように伸びて千切り取られた胃粘膜から、とたん少量の出血が起こった。
橋本さんは、カンシ口から顔をのぞかせた三ツ又を慎重にガーゼで掴んでいる。片手をピンセットに持ち変え、カンシ先を覗き込んだ。
「あります」
カンシでつまんだ胃の組織をピンセットでつまみなおし、用意しておいたホルマリンケースへ落とす。
「一個でいいですか?」
「ん」
「先生、血が出てるけれど大丈夫ですか?」
カメラは鼻からだ。喋れる患者が、枕元に映し出された自分の胃に驚いていた。
「これ、テレビで見ているから大きく感じるけれど、すごく小さい傷だからすぐに血はとまるよ。大丈夫。そうしたら、これで検査、終わるからね」
答える宇田ドクターはどうでもいいと言わんばかりの口調だ。説明が終わる前に、食道を確認しながら手早くカメラを抜いてゆく。
患者のカルテは、検査台の横に据えおかれた机の上だ。投げるようにゴム手袋を脱ぎ捨てた宇田ドクターは、すぐにもどっかと前へ座り、所見を書き込み始める。わたしは入れ替わるように検査台の前に立ち、組織の処理をしている橋本さんをフォローして検査台のフットレバーを踏み込んだ。下り切ったところでようやく体を起こした患者を介助する。宇田ドクターの隣の丸椅子へ誘導すれば、宇田ドクターは前回の診察で行った採血と、今日の検査の説明を始めた。
口調にも内容にも、特に問題がなさそうだ。判断したならわたしは、次に控える診察のため待合ロビーの様子を見に向かった。
車椅子にのった腹痛患者が、帰ってきている。
すかさずレントゲン室から、技師の手により撮り終えたばかりのレントゲンもまた、届けられた。かと思えば入れ替わり、診察待ちのカルテは三冊、放り込まれる。そのうちの一冊に書かれた名前にわたしは、覚えがあった。それもそのはずだ。申し送りにあった明け方の嘔吐下痢、四十二歳の女性である。つまりまだ具合が悪い、ということらしい。
カルテ、ボールペン、体温計。そしてよもやを予見して、ビニール袋を制服のポケットへ落としこみ、わたしは待合ロビーへ急いだ。