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ありがたいことに、救急の患者はバイタル(血圧、体温、血中酸素濃度)をとったあと、レントゲン撮影にむかったらしい。ストレッチャーのなくなった救急外来はがらんとしており、手持ち無沙汰でレントゲンの仕上がりを待つ鈴木さんがいた。
「すみません、エコー室、男性マンマ、細胞診お願いします」
「あ、了解。今いきます」
検査道具一式が入ったケースは、点滴などをつくる処置室、薬品棚に置かれていた。足早にエコー室へ戻るわたしに続き、道具をさらった鈴木さんも向かう。
「失礼します」
上半身裸の患者を考慮して、ノック、一声かけてからエコー室へ入出した。宇田ドクターが明かりをつけてくれたらしい。明るい室内、鈴木さんが早々に患者のベッド脇へ向かう。
この検査は、注射針を検査対象に刺し、細胞を吸引、プレパラートへ乗せ固定液で組織を保存し、検査に出すというものだ。
「18ゲージで」
宇田ドクターが針のサイズを指定する。わたしはプレパラートに名前を書き込み、脇の作業台で固定液の中ブタを開けた。用意された針を片手に、ウダドクターが再びエコーを手にする。わたしは即座に照明を消した。
一度見つけた患部はすぐにも、エコー画面に丸い影として映し出される。慎重に角度を検討しながら、宇田ドクターはそこへ針を差し込んだ。エコー画面に、確かに針の影が映る。患部中央へ針先が達したところで、注射器にも似た吸引器を持つ鈴木さんへ、宇田ドクターは合図を送った。
「何度も、ピストンして」
「はい」
宇田ドクターの持つ針と吸引器は、細いチューブでつながれており、わずかそこに、液状のものが吸い上げられているのが見える。
「ストップ」
針先を患者の体から抜き、エコーを置いた手で鈴木さんから吸引器を受け取る宇田ドクター。プレパラートへ振り返った。採取した検体をプレパラートへ慎重に乗せ、患者の足元、ベッドのフチに道具を置くや否や、固定液を垂らす。一連の動きは素早いが、落ち着き払い、とにかくその大柄な体格からは似ても似つかぬほど繊細で丁寧だ。
「これ、絶対に上を触らないように」
「はい」
わたしは答えて、プレパラートを回収する。エコー室の明かりをつけた。鈴木さんはすでに、患者の針跡へカットバン(バンドエイドのようなもの)を貼り終えている。
「はい、おわりましたよ。検査結果は来週、聞きに来て下さい」
「今日も、薬はありませんよ。検査の結果が出てから、今後の方針を考えましょう」
宇田ドクターもカルテにボールペンを走らせながら、慣れた口調で綴っている。
患者を鈴木さんにまかせ、わたしはオーダー用紙を整え、検査室へ検体を提出すべく、エコー室の扉へ手をかけた。出る間際、慌てて宇田ドクターへ振り返る。
「先生、病棟のカメラ、準備しています」
検査室へ検体を提出し、その足で消化器内科へ舞い戻った。途中、扉が開かれたままのレントゲン室前を横切る。中には誰もいない。おそらく撮影を終えた急外のストレッチャーが運び出されたところなのだろう。鈴木さんは間に合ったようだとホッとしていれば、エコー室から隣り合う消化器内科へ移動する宇田ドクターと目が合った。入り口で合流しする。ありがたいことに診察待ちのカルテはない。宇多ドクターも真っ先にそれを確認していた。
「準備、できてるか?」
奥の橋本さんへ声をかける。しかし、かえってきたのは、その準備に奮闘する橋本さんの大きな声だった。
「ちょっとだけ、ガマンしてね。お鼻に麻酔、かけますからね」
重なり、別の声もする。ストレッチャーを下ろした病棟の看護師と、抵抗しているらしい患者の言葉にならぬ声だ。
「畑中さん。ちょっとだけがまんしよ。すぐすむから」
「センセ、今から麻酔です!」
決して穏やか雰囲気はない。
耳にした宇田ドクターは、悠々と病棟カルテをめくりはじめる。その背を追い越し、わたしは準備中の検査室へ潜り込んだ。
光源と検査ベッドでほぼ一杯となる空間には、検査ベッドが脇へ寄せられた状態で病棟患者がストレッチャーごと搬入されている。そんなベッドの片側には鼻麻酔の容器を持ち、顔を背けて拒む患者と格闘している橋本さんがいた。反対側にはナースシューズを脱ぎ、寄せた検査ベッドへ上がりこんで暴れる患者の手を押さえつつ頭を固定する病棟看護師がいる。見回し、わたしも即座にナースシューズを脱ぐと、検査ベッドの上に上がりこんだ。
「手、持ちます」
「お願いします。畑中さーん。動いちゃだめ」
患者はかなり高齢の女性で、手足は棒のようにやせこけ、右手に点滴、膀胱カテーテルを挿入している状態だ。しかしながらそういう人ほど、思いもよらぬ力強さがあるもので、わたしは尿バックを踏まぬよう姿勢を確保すると、指またのない手袋をはめられた患者の腕を、点滴の針がずれぬよう気遣いながら押さえた。
指またのない手袋は、おそらく自己抜針するクセがあるに違いない。顔つきに言動からしても、痴呆のすすんだ患者だと察することが出来た。
わたしが腕を押さえたことで、両手のあいた病棟看護師が、かぶりを振っていた患者の頭を両手で押さえにかかる。狙いすました橋本さんが、その鼻にノズルを差込み麻酔をかけた。
「なにするの!」
患者が叫ぶ。
「検査、検査よ。畑中さん、昨日、真っ黒い便、でたでしょ?」
言っても通じぬだろうが、話しかける病棟看護師。
狭い検査室に、加齢臭と薬と、酸化した脂臭さが充満する。
「先生、準備できました」
そんな患者の鼻から垂れてくる液を拭きながら、橋本さんが言った。
「ん」
すぐにも宇田ドクターはカーテンを潜り、姿を現す。
「おとなしく、検査させてくれるかな」
病棟看護師は頭を押さえ、わたしは腕を押さえ、橋本さんはカメラ補助の体勢をとり、宇田ドクターがカメラを手にする。
「そしたらね、鼻からカメラ、入れますからね。ちょっと、がまんしててよ」
声掛けする、宇田ドクター。口調は穏やかだが、患者を囲み、取ったわしたちの体制はまるきり反比例する臨戦態勢だ。
「しっかり持っててくれよ」
両手で頭を固定する病棟看護師へ、宇田ドクターは念押しする。そうしてあかあかとライトの灯ったカメラを、患者の鼻に差し入れた。
案の定、嫌がる患者が身もだえする。
なだめすかすのは、宇田ドクターだけだ。
動かせば検査が出来ないだけでなく、患者を傷つける恐れがあるとして、病棟看護師も必死となる。わたしもドクターの手元を狂わせてはまずいと、振り上げられようとする手を押さえ込んだ。橋本さんは、少しづつ確実に鼻から食道へ押し込まれてゆくカメラのチューブへ、ゼリー状の麻酔を塗りつけている。それぞれがそれぞれの役割をこなしながら、モニター画面を見守った。
すぐにも胃に達したカメラが、ひだで覆われた胃の腑を映し出す。絶食のはずだが、胃の中にはおかゆらしき残存物と、胃粘液らしき泡が溜まっていた。
宇田ドクターはすぐさま水道水を吸い上げたシリンジの先を手元の口に差込み、力任せにピストンを押し込む。カメラの先から噴き出す水が、残存物を洗い流した。すかさず吸い上げ、患部を捜す。
二本目。
溜め置いていた容器から、水道水を吸い上げ、からになった一本目のシリンジを用意しなおす橋本さんの動きに無駄はない。
差し出せば、宇田ドクターがカメラから視線をそらすことなく受け取り、注入した。
そうしてカメラは前進を続けながら、十二指腸辺りまでを見回す。
さすがに観念したのか慣れたのか、患者の動きはずいぶんと鈍っていた。
奥まで行ったカメラは先端をU字に曲げ、逆戻りしながら再度、胃の内部をチェックしてゆく。
前処置として、胃のせんどう運動を押さえる注射を実施するが、それでもゆるくウェーブする胃は、いまだうねっていた。と、そのうねりが行過ぎたそこに、白くただれた患部は姿を現す。
何を言わずとも、全員が思い巡らせたことは同じだ。
「これだな。立派な潰瘍だな」
宇田ドクターが参ったといわんばかり、呟く。
すでに出血済みの患部は、その中心が赤黒い。またいつ出血するかもしれない状況だ。破れる前ならいざ知らず、破れた後ではクリップも手遅れだ。
「アルトシューター」
宇田ドクターが言った。これはカメラ先端から、直接患部へ薬剤を噴霧するものだ。
何度かその名を口の中で繰り返した橋本さんが、すぐにもアルトシューターの準備を始める。ガンタイプの噴霧器へ薬剤カートリッジをセットし、それをカメラと接続した。もちろんカメラ操作は宇田ドクターが担当し、薬剤の噴霧は橋本さんの役目となる。
「いくぞ」
「はい」
モニター内に捕らえたままの幹部へ、さらにカメラを近づける宇田ドクター。
「噴霧して」
橋本さんが、トリガーを引く。モニター画面一杯に、白い粉が霧のように散った。
「最後まで、最後まで」
途中でトリガーを戻すなと、指示する宇田ドクター。
橋本さんがトリガーを引き続けながら、カートリッジをもう片方の指で弾いた。
「先生、カラです」
画面は飛び散る薬剤で白い。
宇田ドクターがカメラを後退させた。
「レンズにもつくからな」
辛うじて確認できたのは、えぐれていた患部に、びっしりと付着している薬剤の粉だ。
「オーケー」
撤退の合図となる。
「もう、終わるからね」
病棟看護師が患者へ、その忍耐を称えて話しかけていた。
宇田ドクターの手さばきは早く、あっという間にカメラは患者の鼻先から抜き出される。
「お疲れ様。畑中さん、終わったよ」
拘束からも解放され、ほっとしたように患者は何事かを口にしていたが、その場に言わんとしていることの意味を理解できる者はいなかった。
そうして看護師に押され、病棟へ戻ってゆくストレッチャー。交差するように、車椅子が消化器内科の前へ進み出てきた。点滴室担当の看護師、まだ三十代そこそこの内場さんだ。
「点滴、だいぶ効いてるみたいで、楽になったっておっしゃってます」
昨日の急外患者、ノロウィルス疑いの嘔吐患者だ。立て込んでいたため、応急措置として点滴へまわしていた事を思い出す。傍らに吊られた250ミリリットルの点滴は、見れば、まだ五分の一ほどが残っていた。
「最後まで落としてからでもよかったんだけれど、もう、外来の診療時間も終りに近いし、ご本人が動けるからとおっしゃったので、診察お願いに来ました」
わたしは内場さんが小脇に抱えていたカルテを受け取る。
「あ、はい。分りました」
「もう、歩いて来れそうだったんですけれど」
車椅子に収まった患者が、照れくさくも申し訳なさそうに言った。聞こえていた宇多ドクターの声が、診察室から促す。
「ん。いいよ。入れて」
わたしは内場さんに代わって、車椅子を押した。
あれだけの七転八倒が嘘のようにケロッとした患者は、ウィルス性の胃腸炎であろう説明を受け、その後、薬を処方された。そこにはもし翌日も食事が出来ない場合は点滴をするので来て下さい、という指示も付け加えられている。
「お疲れ様でした、先生。外来、終了です」
いつの間にか受付は閉ざされていた。嘔吐患者を最後に、確認してわたしは言った。
「お疲れ。今日は、忙しかったな」
同感だというしかないだろう。
「はい。盛りだくさんでしたね」
宇田ドクターの首にからかけられていた聴診器が、カタリと鳴って診察机へ置かれる。
救急体制に入る午後にも仕事はあったが、わたしは半日勤務だ。午前診療の後片付けと簡単な掃除をすませ、勤務時間終了と共に病院を後にした。
ほんの少し温んだ風が、高い日差しと共にわたしを包む。朝より伸びた背筋は、緊張の名残だ。
閑散とした道路には、営業に向かう軽自動車と手押し車を押す老人の姿。着替えを終える頃には、それら緊張という魔法も解けて、わたしもその安穏のした雰囲気にすっかり馴染み、駅へ足を繰り出した。
と、それは最初の交差点で信号が青になるのを待っていた時だ。横切って走る自転車を避けようと振り向いたわたしの目に、見覚えのある顔は飛び込んでくる。向こうも、気づいたらしい。通り過ぎるつもりで勢いづいていた自転車は、わたしの目の前で急ブレーキをかけた。
「もう、帰るの?」
「ええ。今日は午前中だけだから。って、そっちは?」
それはかつて、消化器内科に通院していた患者だ。勤め出して初期の頃、胃痛を訴え胃カメラを実施したところ、出血寸前の潰瘍が見つかり、緊急入院した六十代の男性患者である。その上、その時の細胞診で患部からガン組織も見つかり、一月以上も入院していたのだった。入院の説明をした折、職人である患者は、若い衆を放っておけないと渋ったことが印象深い。
「そこ、仕事場。ふぅん、そういう時もあるのか」
笑う。
「だいぶん、顔、丸くなりましたね」
手術も重なり、痩せてシワシワだった顔は色艶もよく、健康そのものだ。
「あれから、八キロも太ったよ」
「は、ちきろ!」
病院では見受けられなかった職人としての自信が厳しさと刻まれたその顔は、よく見れば案外、男前だったのだなと今さらのように魅力すら感じて、わたしもまた幸福感に包まれる。
とたん、わたしの倍は年配となる彼の態度は、改まった。
「その節は、大変お世話になりました。おかげですっかり元気になりました。ありがとう」
とたん襲う違和感に、わたしの笑みは引っ込んでいった。手助けはしたが、それ以外は何もしていない。その解釈は間違いだと、咄嗟に感じる。これは謙虚などではない。実際、手を出したくともできないのだ。だが、勘違いを咎めて真摯となるには、あまりにも場がそぐわなかった。
「それは、金田さんが頑張ったからですよ。お言葉は、先生に伝えておきますね」
わたしは受け流し、手を振る。
合図に、彼は自転車のペダルを踏み込んだ。颯爽とこぎ出しながら、振り向きざま言う。
「気をつけて、帰りなよ」
「うん。ありがとう」
見送っていた。
そして、一つ見逃した青信号をまたいでわたしも、家路を急ぐ。
かりそめの笑みはすぐにも剥げると、むなしさだけが足元に絡んだ。
手助けはしただろうが、実感は何かが違うと訴える。
結局、ドクターもわたしも看護師も、扱えるのは肉体という見えるところだけなのだ。そして見える所がいかに小さな領域であるのかは、生還もあれば死亡も起きる院内が証明している。そして回復に必要な力こそ見えず、おそらく礼をいうなら身の内に潜むその力に対してが妥当だと、ひとりごちた。
そうも患者が期待するほど医療は神でも魔法でもない。おそらく生粋のリアリストだ。
わたしは電線に切り刻まれた空を見上げる。
明日も見えるところだけに手を下す。そう思いながら。