ライブチャットの天才
この作品は、フィクションであり、登場する個人名、団体名は全て架空のものです。
また、解説されている医療行為等に関しましては、事実と異なる場合があることをご了承ください




見えるところ

              





-4-

 現在、受付通過順に診察するなら、車椅子の腹痛患者がトップだろう。CRPから察するに入院か、うまくまとまって点滴が妥当だ。そして次に『カテゴリー5』の患者となる。これは恐らく手術の相談になり、本人の希望によっては他院を紹介することが想像できた。そのためにドクターは紹介状の作製を余儀なくされ、わたしは添付資料の作成に手を取られる。そして次に、今、来院した時間外の患者がいた。またこの三者の間に、定期薬をもらいに訪れたいつもの名前が一人、二人、と挟まってもいる。
 診察の優先順位を決定するのは、わたしではない。だがその下準備として要領よく立ち回るにどれも手のかかる患者ばかりなら、内心わたしは、くそっ、と毒づいた。
 しかしながら一つづつ処理してゆくしかなく、ロビーで女性の名前を呼ぶ。反応を示したのは、すでに顔色も青白く、体も前屈み丸まった女性だった。ひとりでは到底、来る事が出来なかったらしい。家族が横に付き添っている。聞けば、吐き気は続いているが、すでにあるモノ全て出した後で胃液くらいしか出ない、と家族が話した。加えてだいぶ症状は軽いが、家族の中に同じ症状の者がもう一人、いるらしいことを聞く。そちらは家で休んでいる、とのことだった。
 シロウトながらも、ノロウイルスか、と考えてみる。
 と、聞き取りをするその耳に、病理検査の結果は来週、聞きに来てくださいと言う宇田ドクターの声が、かすかに聞こえた。
 検査終了の合図だ。
 受付順の診察なら、この時間外患者の診察はかなり後になるだろう。待合ロビーで待たせるに忍びなく、ひとまず検査室と診察室の間にある簡易ベッドへ誘導した。
「ベッド、使いまーす」
 よろよろ進んで腰掛けた患者の靴を脱がす。横になる頭へ枕を押し当て、カーテンを引いて人目から隠した。付き添いの家族へ、あまっていた丸イスを勧める。
 チラリ、その様子を横目で確認しつつ、宇田ドクターがカメラ室から診察室へ移動していった。追いかけわたしは口を開く。
「採血、レントゲン、上がってます。ベッドの方は、昨日の時間外で、下痢嘔吐の方です。まだ気分が悪いということで、こられてます。家族さんにも、同じような症状の方がでてらっしゃるそうです」
 診察室の机前に腰を落とした宇多ドクターに相槌はない。受付順に積み上げた一番上のカルテへ手を伸ばすのみだ。動きを見て取り、わたしもまたシャーカステンへ出来上がったばかりの腹部レントゲン写真を差し込んだ。
「電気」
 宇田ドクターの指示と同時に、スイッチを入れる。
 張った腸は真っ白だ。
 ひと目見ただけで、手元の採決結果へ視線を落とした。
「イレウスだな」
 つまり腸閉塞だ。恐らく触診の段階で宇田ドクターは気づいていたのだろうと、わたしは察する。
 狭い診察室内、患者用の丸いスを脇へよけながら、わたしは言った。
「本人、お呼びします」
 車椅子を押して患者を診察室へ、入れる。
 向かい合うなり、宇田ドクターはひざを乗り出し、言った。
「酒井さん。入院しましょ。絶食で点滴して、様子みないとダメですわ。これ、白くなってるでしょ」
 レントゲンを指差した。
「全部便。ここかな、細くなってるでしょ。この辺りで腸閉塞起こしてるみたいだから、もう、このまま帰っていいですよとはいえない。放っておいたら、腸に血が通わなくなって、そこから腐ってくることもあるからね。そうなったら手術とか、もっと大変なことになる。それは避けたいんですよ。そのための入院。準備するけど、いいかな?」
 急に入院だといわれた患者は、たいがいがキョトンとするものだ。自分はそんなにヒドイのかというショックと、急に帰ることの出来なくなった家の心配。そして主婦ならば家族と家事への段取りが頭を過ぎるらしい。必ずといっていいほど、その後で一度、帰らせてくれと、二、三日後出直す、といいだす。
 痛みに憔悴しながらも、やはりキョトンと聞いている腹痛患者、酒井さんの肩をわたしは呼び起こすようにたたいて宇田ドクターの言葉を繰り返した。
「酒井さん。先生が入院しましょうって。おうちはお一人? 家に電話したら誰かいるかな?」
 酒井さんが振り返った。
「息子夫婦とおります。入院ですか?」
「そうですよ。このまま放っておいたら大変だから、今のうちに処置しておきましょう」
「はぁ。何日くらいです?」
 すでに患者からカルテへ振り返った宇田ドクターは、所見と指示を書き連ねている。
「それは、様子次第ですよ。一、二週間で帰れるかもしれないし」
「はぁ」
「うん、それは酒井さんの体調しだいかな」
 私も相槌をいれる。
 ようやく理解が追いついたらしい患者の顔に、表情が戻った。
「仕方ないですな。痛いのも、もう、かなわんし」
「じゃ、準備しますからね。申し訳ないけれど、もう一度、表で待ってもらいますね」
 言いながら、車椅子を診察室から押し出すわたし。
「準備できたら、お部屋へ上がってもらいますね」
 手近な所に止め、駆け戻る。
「入院指示、後で書くからな」
「はい」
 答えつつ、わたしは入院書類に患者名だけを記入した。傍ら、医事課へ内線をつなぐ。入院カルテの作成を依頼した。
「とりあえず、いますぐ、この点滴して」
 内線を置くや否や、宇田ドクターはカルテを押し出す。
 わたしは内容へ目を通した。
「はい」
 シャーカステンから用のなくなったレントゲンを回収する。
「次」
 作業台へ双方を積み上げ、患者を呼び入れるべく待合へ踵を返した。
 そうして診察室に入った定期薬の患者は、半年ほど前、ここで胃の全摘手術を受けた患者だ。抗がん剤投与がいったん終了し、術後の経過観察に来ている。自立患者のため、診察補助はいらない。
 片耳でドクターと患者の会話をききながら全部で八枚ある入院書類の必要箇所へ判をつき、病名、入院指示を含むドクター記入用紙を三枚、脇へよけ、残りを届けられた入院カルテへ挟み込む。入院に必要な心電図検査と、今、撮影した腹部以外のレントゲン撮影の指示をオーダーした。点滴内容の書かれた外来カルテと共に、処置室へ持ってゆく。
 なら処置室の長机は、点滴、採血、検査予約、心電図などと、他科からも押し寄せる処置待ちのカルテで山盛りとなっていた。本日、担当の看護師、二ツ石さんに、フリーの鈴木さん、師長が対応に追われている。夜勤明けの田淵さんは帰ったらしい。見当たらない。
「イレウス入院、お願いします。部屋とりしてません。本人のみ、車椅子です。いますぐ、こっちの点滴もお願いします」
「了解。そこ、おいておいて」
 点滴ボトルへ輸液セットを接続しつつ、わたしの声に師長が返した。
「お願いします」
 処置室を出る。ちょうど診察を終えた経過観察の患者が、消化器内科から出てくるところと鉢合わせた。 「お大事に」
 すれ違いざま声をかけ、次の呼び入れに急ぎ室内へ診察室へ入った。
「今日、採血」
 差し出された記入済みのカルテを、宇田ドクターから受け取る。
「次、お呼びします」
「待って」
 足を止めるわたし。確かに次は「カテゴリー5」の患者だ。宇田ドクターにも準備がいるらしい。そのわずかな間を利用し、わたしは今出た採血のオーダー用紙を作製した。検査項目は一般的な血液検査をまとめたセットと、CEA、CA19-9だ。いわゆる腫瘍マーカーである。
 タイミングも良く、検査結果の所見へざっと目を通した宇田ドクターがそこで次を促した。
「ん、いいよ」
 私は血液検査のオーダー用紙とカルテを片手に、確認した名前を呼びにゆく。小奇麗な老婆が、楚々と待合の椅子から立ち上がった。
 隣の検査室では、次の胃カメラ検査の前処置が始まり、診察待ちカルテの中に、すでに予約分腹部エコーの患者カルテが入っているのもまた、わたしは確認する。診察室へどうぞと老婆を促し、処置室へ血液検査のオーダーを放り込んだ。
 診察室へUターンすれば、突けば折れそうな老婆は、握り締めた布カバンをひざの上に乗せ、丸イスの上で硬直している。前に置いた宇田ドクターの切り出し方は、実にドライだった。
「この間の検査結果ですね」
「はい、どうでしたでしょうか? 先生?」
「取った組織から、悪いものが出ているんですよ」
「……え?」
 悪いものの意味が、掴みきれないのは仕方ない。聞きながら、わたしは手早く診察待ちカルテへ、判をついてゆく。時計を確認した。エコー検査に訪れた患者の予約時間まで、もう10分もない。
「悪いって、何ですか?」
 老婆は遠くなった耳のせいで、ぐいと身を乗り出している。
「がん細胞ですね」
 言った宇田ドクターの手元、カルテにはられた検査報告書を凝視し、老婆はまじまじ、宇田ドクターの顔をのぞき込んだ。
「ですが、手術すれば、このタイプは九十パーセント、大丈夫だと思われます」
 答える老婆のタイミングは、妙に間がずれている。
「え? 胃を取るんですか? 入院、ですか? 今?」
 瞬きの回数が明らかに増えていた。
 こうなった時、患者は、ドクターの話を理解できない場合が多い。わたしは手を止め、老婆の様子を観察した。
「あのね」
 落ち着き払った宇田ドクターは、なだめるようにいいながらメモ用紙をつまみ出している。
 そんな私の視界のすみに、胃カメラ検査の準備が整ったことを知らせる橋本さんのオーケーサインが映った。頷き返すが、こちらがまとまらないとムリだろう。そして控えたエコー検査の患者の準備をすることもまただ。
「胃の壁の断面を描くと、こうなっていてね……」
 宇田ドクターの、時間を惜しまぬ説明は始まった。
 それによると、がん細胞は胃粘膜の表層に広がっているタイプのものらしく、内視鏡手術でその表層だけを切除すれば、よく知られる胃の大部分を摘出するような手術を受けなくても、ほぼ完治するらしい。そして患者にダメージの少ない内視鏡手術を望むなら、この例に関しては開腹手術しか行っていない当院ではムリだということを、別の病院の紹介が必要であることを説明した。
 しかし、老婆の耳に、肝心なところは届いていない様子だ。
「今、一人暮らしで、広島に娘夫婦がいまして。こっちの大家さんに、家をあけること言わないと。もう、いつ帰れるかわからないのに、ほったらかしはねぇ。それだったら、広島の方が……。娘に連絡したら。でも、忙しいっていってたから迷惑かしら……。どうしましょ」
「いやいや、違うよ。そんなに長い入院にはなりませんよ」
 宇田ドクターが言葉を挟む。
「本当ですか?」
 乗り出した身をさらに捻って、老婆は詰め寄っていた。
「抗がん剤とか、あの、髪の毛が抜けたりするんでしょ?」
 わたしにも声が震えていると分る。だが、実際の治療を知らないわたしは、何も言うことができない。
「そういう治療もありますが、今回はそんなことはしないと思うよ。抗がん剤が必要だとしても、飲み薬程度になるでしょうから、退院後、服薬ですみますよ」
「いや、主人が胃がんでなくなっていますの」
 思い出していたのだと知れたなら、老婆の心配が大仰でないことが分かった。宇田ドクターは、その不安を吹き飛ばすように朗らかと笑ってみせる。
「それは、違う違う。そういう病気じゃないよ」
「そうでしょうか?」
 しかし空気は変わらない。ここへ入って来たときに比べて老婆の顔色は明らかに悪くなっている。わたしは初めて口を開いた。
「先生が大丈夫っておっしゃってられるから、大丈夫。心配しすぎですよ。ただ、やっぱり手術は受けてもらわないといけないみたですけれどもね」
 冗談めかしながら、やんわり逸れた話を元へ戻す。安心させることも大事だが、時間がないことも事実だ。
「どうしますか? どちらか、内視鏡の病院を紹介しましょうか?」
 言われた老婆の目が、泳いだ。すぐに答えが出て来る様子にない。
「お腹、開くと、入院も長引くし、本人も大変だと思うんですよ」
「そのほうが、先生はいいと思われますか?」
 聞き返す。
 今度は宇田ドクターが、しばし口ごもった。
「そうですねぇ」
「……でしたら、お願いします」
 決着がついた。わたしは微笑む。
「ん。そうしましたら、受付で紹介状をお渡ししますね。準備いたしますので、しばらく待合でお待ち下さい」
 納得したような、しないような面持ちで、傾ぎながら立ち上がる老婆。が、ふとそこで立ち止まる。
「何かあったら、来ていいでしょうか?」
「いいですよ。入院するまでは、ぼく、日曜以外、毎日いますから。きてください。相談にのりますから」
「本当に、よろしくお願いします」
 宇田ドクターへ頭を下げる。そうして老婆はわたしへもまた、精一杯の笑顔を向けなおした。
 その目はすでに、赤かった。

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