この作品は、フィクションであり、登場する個人名、団体名は全て架空のものです。
また、解説されている医療行為等に関しましては、事実と異なる場合があることをご了承ください




見えるところ 2

                         





-7.手術 2/2-

 21時に飲めと書かれていた薬は、間違いなく睡眠導入剤だったと思われる。
 術前、不安のため眠れない患者を配慮しての処方だ。
 だが、一抹の不安はあれども、半ば覚悟の決まったわたしにそれは必要なかった。
 飲んですぐ布団をかぶり、つけたテレビのニュースで無事ケネディ国際空港に着陸したシャトルを確認する。
 グレーの空の彼方から白い機体が現れ出でたかと思うと滑空し、最後、タッチダウンと共に後方から放出されるパラシュート。それは幾多の事故を乗り越え火の玉となり宇宙というあの世から帰ってきた、奇跡の瞬間のようにわたしの目に映った。
 心よりお帰りと、おめでとうと絶賛する。
 そうしてほどなく、サッカーの試合は始まった。
 90分。
 野球やテニスと違い、きっかりで勝負はつく。
 消灯時間は過ぎ、病室は枕元につけた読書用の明かりだけとなっていた。
 回りに同様にこの試合を息をひそめて観戦している気配はない。
 青いウェアがグリーンの芝生に刺すように映えていた。
 視線を上げた選手たちの、戦いに挑む瞳は美しい。憂いのカケラもなければ、じくじくした湿っぽさは微塵もなく、決意と力強さに開かれた瞳だった。
 布団を握り締めたわたしは吸い込まれるように見入ると、口走りそうになる独り言をどうにか制して、観戦を続けた。
 そうして試合はドローのまま、前半を終了する。
 時刻は23時も近づいた頃合だった。
 いつもなら、24時、25時と起きているわたしだ。その時間に眠くなるはずなどありえない。しかし、飲んだ薬は緩やかに効果を発揮しはじめたらしく、その辺りから睡魔はわたしを襲っていった。
 耐えて20分。
 どうしても見届けたかったのは、結果を知らずに終えたくなかったからにほかならない。
 と、半分閉じかかった目に、ゴールネットを揺らすボールが映った。
 イヤホンから、日本選手がゴールを決めた叫びが漏れる。
 すっかり遅れて、わたしは瞬きと同時に腕を振り上げていた。
 ぼやけた頭で、やったと呟く。
 どうにか最後まで見届けた試合は、日本の勝利で幕を閉じていた。
 満足だった。
 シャトルは無事生還し、日本は勝った。
 これが日常なら、明日も必ず最高の1日となるに違いない。
 幸福感に包まれながら、イヤホンを投げ出すと同時に、わたしは眠りに落ちていた。

 そして迎えた当日。
 バイタルチェック後の、朝食はない。
 代りの浣腸が待っていた。
 腹を掃除したその後、ほどなく家族が予定より早く病室へ現れる。
 おなかがすいたとわたしは唸るが、そればかりはどうしようもなかった。
 日もすっかり高くなった頃、1人目の手術が始まる。
 わたしは2番目だ。
 と同時に、術着に着替えるよう促された。
 中の着衣は全て脱ぐよう指示され、渡された紙の下着と、持参した血栓防止ストッキングを履く。そのあまりに情けない格好に失笑すら漏れるのは、やはりどこかテンションが高いせいだろう。整えば、血管に点滴の針をさしたままにすることでいつでも輸液と接続できる器具、ルートを腕に挿入された。
 点滴が始まる。
 昼食も抜き。
 1件目の手術が予定時間より押しているらしい。
 だが待つことにはもう、慣れていた。
 見ず知らずの人だが、同じ手術を受ける者として、がんばれとさえ思いは募る。
 点滴のせいだろう。途中、手洗いに数度、点滴台を倒しそうになりながら通う。
 そうして現れた看護師が、もうすぐ手術ですから、これを飲んでくださいと1錠の薬をわたしに手渡していった。説明は、昨夜と同じ安定剤と言うことだった。
 わずかな水で飲み下し、いよいよだとベッドに腰掛ける。
 しばらくは家族とたわいもない話をしていた。
 だが、頭がぼやけてきたのは、突然だったように思う。起きていることがしんどくなり、横になると言ったきり、わたしは薬の力で眠ってしまっていた。

 揺さぶられたような気がする。
 誰かに呼ばれていた。
 答えたが声は出ない。
 それはただ、体が反応しただけに止まっていたはずだ。
「いい感じに仕上がってますね」
 それが最後に聞いた言葉だった。
 麻酔科医の声だ。
 他にもなにやらやり取りを交わしているが、聞き取れるだけの力はない。
 ただ失礼だと思うその前に、全てはドクターの想定内におさまり進行しているのだと知って、わたしはよかったとただ安堵していた。
 その後、わたしには眠った記憶すらない。
 ドクターに命を預けたその時間は、今でも人生の中からすっぱり切り取られたままとなっている。

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