この作品は、フィクションであり、登場する個人名、団体名は全て架空のものです。
また、解説されている医療行為等に関しましては、事実と異なる場合があることをご了承ください




見えるところ 2

                         





-6.手術 1/2-

 病院食はまずいともっぱら評判だが、食療養とまるで縁のない病のせいか、多くを望まなければそれはそれなりに美味しくいただけた夕食だった。
 自らトレーを取りにゆき、完食後、返却へ向かう。
 いつもと違う環境にレジャー感覚さえ覚えて、贅沢にも翌日の朝食内容を2種の中から選択した。
 しかしながら入院生活は、社会と切り離された環境であり、レジャーと違って刺激が少ないものであることは言うまでもない。そのまどろみが心地よいと言えば心地よくもあるが、痛みにのた打ち回っているわけでもなければ巷が気になるのは当然のこと。
 その後、消灯までの時間の一部で、もらったテレビカードを使いニュースを見た。
 テレビのキャスターは家で見るのと寸分違わずコチラを覗き込むと、明日、長期滞在を終えた宇宙飛行士が宇宙ステーションから帰還すると言う記事を読み上げ、ほぼ時を同じくしてサッカーの世界大会で日本代表選手が世紀の決戦に挑むと言うニュースを連ねた。
 奇遇と言うべきか、単なる自意識過剰か、そしてわたしは、その翌日、手術に挑むこととなっている。
 その事実に何か大きな節目を感じ、わたしは高揚感を覚えずにはおれなかった。
 テレビカードの点数は気にしていなかったが、天気予報は今のところ必要なく、わたし
はそれきりテレビを消した。
 眠る前にと、ベッドの上であぐらをかく。
 それは安眠のための儀式のようなものでもあった。数年前からたった数度だが、京都の寺院で座禅に参加したことがあったわたしは、自宅で入院を待つ間から、そのやり方が正しかろうとも間違っていようとも、見よう見まねで実践していたのである。なおさら病室に入り、手術を明日、あさってと控えた自分には、それこそ必要不可欠な段取りだった。
 無心になる。
 禅の境地をそう捉えて説明する文章は多い。 だが無心を考える矛盾は、いつも実践者を悩ませていたことだろうと思う。
 だからこそ考えず、その意識を実践のみに向けるなら、体を巡る息の動き、呼吸のみが禅の全てだろうとわたしは理解していた。そして元々、腹部に巨大な異物があるわたしは横隔膜の稼動域が狭く、浅い肺呼吸が常だったように思われる。
 就寝前、そのストレスを禅という形で腹式呼吸へ移行させ、リラックス。わずかながらも自律神経を整え、凝り固まった体を解放し、深い眠りにつく、それが目的だった。
 静かな病室だからこそ、妨げるものは自宅以上になにもない。
 そして儀式を終えれば、無事終了したルーティーンに日常という冠が施される。
 騙された脳は、明日も間違いなく同じ日が続くだろうと、安堵のうちにわたしを眠りへ誘った。
 目覚めて午前。
 すでに飲み薬が処方され、体温、血圧等のバイタルチェックが、手際よく明るい看護師さんの手によって済まされる。
 食事を終えて、時間を持て余している頃に家族が到着し、担当医からの手術説明を待つのみとなった。
 その部屋へ通されたのは、予定を30分ほど過ぎてからのこと。
 紹介状に名前のあったドクターと、もうひとり、女医が長机を挟んですわっていた。
 話によれば紹介状のドクターもその場に立ち会うが、手術を実際に施行するのはその女医ということになるらしい。神経質な患者なら、話が違うと文句のひとつも言うだろうが、
もう明日のことである。そんな番狂わせこそ、先方に負担となるに違いなく、わたしはお願いしすと頭を下げるだけに止めた。
 手術時間は、60分が平均的と聞かされていた中、90分が予定されていることを告げられ、具体的な事故内容に事故率。そして手術中の死亡原因に死亡率。輸血の可能性と、その危険性の理解への同意。場合によっては腹腔鏡手術から開腹手術へ切り替える場合があることを事細かに説明される。そして手術の段取り、その後の退院計画がざっと並べられた。
 要は、死んでもそれは不可避なものであり、文句に異存はないですねという、病院側の安全を確保するための同意の場だと理解すれば、それこそ術中意識のない自分は、さんざん並べられたトラブルの主体でありながらカヤの外の存在であることに違いはなく、ショッキングであればるほど聞き流す。呑気といえば呑気かもし知れないが、仕方ないねと、家族と顔を見合わせ、同意書のそれぞれにサインをした。 恐らく、治療の過程で一番釈然としなかったのは、この手術説明の時間だったろう。
 再度、よろしくお願いしますと頭を下げ、病室に戻り、昼、本日最後の食事をとった。
 家族は昼過ぎまでいてくれたが、明日、朝来るということで病室を後にする。
 残された時間、待合ロビーに出てテレビを見たり、広い病院内を散策したりして過ごした。
 さすがに気を紛らわせることが必要だった。
 そうして見つけたのは、同じ階の真反対に位置する新生児室だ。
 おくるみに包まれた赤ん坊が、世界を眩しそうに固く両目をつむると、ガラス窓越しに幾人も並んで眠っていた。
 神々しくも、それは私と正反対の姿に見えた。
 覗き込めば、世話をする看護師さんが手を振ってくれる。
 迫れば、万に一つの可能性を笑い飛ばすことなどできない。
 目の前にした、生まれたての命が、それをことさら顕著にする。
 しかしそうして死んでいったとして、ここに生まれ出で、それまでのわたしのように、これから育つ命があるのなら、これほど頼もしいことはないと。

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