ライブチャットの天才
この作品は、フィクションであり、登場する個人名、団体名は全て架空のものです。
また、解説されている医療行為等に関しましては、事実と異なる場合があることをご了承ください




見えるところ 2

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-1.予兆-

「いい感じに仕上がってますね」
 それが聞こえた最後の言葉だった。
 その後、わたしには眠った記憶すらない。

 体のだるさは慢性的で、なかば根性論にまで達しようとしていたのは、うだるような暑さの続く夏。
 夏バテというものには滅多と陥ったこともなく、トシのせいかとも納得していたが、そのだるさはやはりどこか尋常ではなかった。
 たとえば、駅まで歩いて15分。
 重い月刊誌を立ち読みに駅前の書店まで足を運んで、往復4、50分の外出。
 しかしながら帰宅後のわたしは、ぐったり疲れ切っており、リビングのソファに寝転んだまま2時間は身を起こせなくなっていた。
 同時に日々のお通じの滞りも酷く、比例して食欲はなく、しかしながら体重のわりに下腹部は張り出し、しかも左右差があった。無論、腰痛は酷く、そのせいで寝つきの悪さは日々のこととなっていた。
 ウツ症状ではないのかと疑ったのはまさに根性論だが、寝つきこそ悪くとも、目覚めはあくまで機械的だっただけに、その疑いは自尊心と共に拭い去られていた。
 だからしてただわたしは、立ち仕事の続く中、ブームのようなものも手伝っていたのだろう、安易に全ての原因を骨盤の歪みだと信じ込んでいた。それゆえ、整体などに通い、治ったならお通じも戻るだろうと、そうすれば食欲も復活し、気力も戻るハズだと自己判断していたのである。

 これは全く場違いな話ではない。
 脳と言う臓器は至極単純で、今日と同じ明日が来ると信じるだけで、永遠をも紡ぎ出してしまうモノらしい。
 無論、そうでなければ日ごと、いや、瞬間、瞬間に不安は尽きることがなく、日常生活そのものに支障をきたすことになるからだ。
 たとえそちらがいかに現実を指し示しているとしても、約束された明日がすなわち永遠であるという錯覚は、予測不能な時の中で生きるわたしたちの大切な機能でしかない。

 だからしてわたしもまた今日のように明日が訪れ、その繰り返しが永遠に続くような錯覚を、何の自覚もなく抱き続けていたのだった。
 たとえどれほど己の体調が悪かろうと、いつもと違う痛みがあろうと、それらがすでに日常生活に支障をきたし始めていようとも、それもまた代わらず繰り返される日常と言う永遠の一環であると信じて疑わなかったのである。
 そう、その違和感に耐えられる範囲など、ごくわずかに限られていたとしても。

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