この作品は、フィクションであり、登場する個人名、団体名は全て架空のものです。
また、解説されている医療行為等に関しましては、事実と異なる場合があることをご了承ください




見えるところ 2

                       





-9.退院-

 翌日、もう回診はなかった。
 診察室での診察だ。
 それ以外、じっとしていれば腹部内の傷口の癒着がおきやすいということで、暇を見つけては同じ階の廊下を、ロボット歩きでウロウロしていたわたしは、もう診察室までの距離をためらうことはなかった。
 やはり内部の出血や、余計な痛みが生じていないことを確認。
 生ゴムはあっけなくもドクターの手で引っこ抜かれ、上から1枚、絆創膏が貼られただけだった。
 経過は順調だと告げられ、ガーゼの取れた傷口には、防水テープが貼られる。
 そのうえで、今日からフロに入ってもいいと告げられた。
 確かにもう3日、4日、フロには入っていない。前日、体を拭いてはもらったが、髪も汚れたままだった。
 少し怖がるわたしを、その方がさっぱりして気持ちがいいと看護師は促す。ならばと思い切って、わたしもまたトイレの対面にある風呂場へ向かった。
 風呂場で何より驚いたことは、たった3、4日の間に、すこぶるやせ細ってしまったことだった。それも筋力が落ちるという痩せ方は、そのシルエットを80歳の老婆のように変えていた。しかも、3時間、カエルがごとく膨らまされていた腹は、その名残を残していまだぽっこりと出っ張ったままだ。
 まるで餓鬼ではないかと、失笑すら漏れる。
 しかしながら致し方ない。
 フロに入れば確かに気分は一新した。
 どことなく、日常が戻ったような気さえする。
 これで明日、無事退院かと思えば、あまりに快適だった入院生活が、ちょっとした贅沢だったような気にさえなっていた。
 帰り、遠回りして、常連となった新生児室を覗く。
 看護師とも顔見知りとなれば、いくつかたわいもない会話を交わした。
 それでもいつか、子供が産めるだろうか?
 新生児室へ通うたび、ナーバスな思いもこみ上げてはいたが、それでもその光景は希望の代名詞そのものだ。
 退院そのものが、どこか新しい人生の始まりのような錯覚さえ覚えて、わたしはその希望を胸いっぱいに吸い込んでいた。

 入院、最終日の抜糸は、痛くも痒くもないうちに終り、再び防水テープが貼られた。
 あとは、荷物をまとめて定時までに退院の手続きをとってくださいと、促される。
 迎えに来てくれた家族と、慌ただしいまでに準備を整えた。
 歩くことに支障はなかったが、全てをまとめ、病院を出た瞬間、外界のめまぐるしい動きに、自分がどれだけ弱っているかを思い知らされた。
 タクシーを捕まえ、帰路を辿る。
 車の振動さえ、内臓に響いた。
 それでも帰るのだと言う思いは、何か大きな仕事をやり遂げる決意に満ちていた。
 一週間足らずだというのに、自宅が視界に入れば、懐かしさがこみ上げる。
 荷物を降ろし、ドアをくぐった。
 すぐ横になる。
 暑さが身にしみた。
 それからしばらくは、どっと噴き出した疲れに身動きが取れず、しばし寝たきりとなる。
 世話になった看護師やドクターや、同じ病室の患者仲間のことが頭を過ぎったのは、それから数日たってからのことだ。薄情というわけではない。やはりそれほどまでに、疲労していたのだろう。

 夕の刻、配達されていた新聞を開いた。
 サイフから取り出した宝くじをかざす。
 みごと、どれも最低額さえ当選してはいなかった。
 よかったと、まるで理にかなわぬ安心を得てわたしは笑う。
 もう一度、繰り返し見たオペラ歌手のビデオが見たくなっていた。
 だが、レンタルだったそれは、駅前まで借りに出向かなければならない。
 体は回復の一途を辿っている。
 だが、気力と言う見えないところは、まだまだ不完全だった。
 こればかりは、医者も薬も効かない領域だ。
 焦ることはないかと、わたしはまた横になる。
 蝉の声のやかましさが、激しくも生々しくその身を包んだ。
 そうだ、去年もこうだったと、わたしはしばしの眠りに落ちる。

fin

                    

『N.riverの食っちゃ寝、創作!@HOME』へ
本作品をお読みいただき有難うございました。